元在サンパウロ総領事館広報文化担当にして、『ボサノーヴァの生き字引』ともいわれる坂尾英矩さんが、ブラジルと日本の音楽交流に関するコラムを毎週、執筆掲載することになった。坂尾さんは2020年秋の叙勲に旭日双光章受章を受けたほど、公にその功績が認められた人物。一般には知られていない、音楽を通した日伯交流史が次々に紹介される予定。ぜひ一読を。(編集部)
はじめに 坂尾 英矩
この度はブラジル日報にコラム「日伯音楽交流史」が掲載されるのは大変喜ばしく感謝の至りです。
実は日本移民百周年記念公演で世界的に著名なジョルジ・ベンジョール訪日の際に同行した私は、東京の西荻窪でアパレシーダというブラジル文化スペースを経営するウイリー・フォーパーさんから「坂尾さん、あなたは貴重な生き残りだから講演して下さい」と頼まれたのです。
私は「生き残り」という言葉がショックだったので、改めて考えてみるとボサノーヴァ創成期1950年代後半から1960年にかけて、リオやサンパウロで夜一緒に飲み歩いた日本の音楽関係者、作曲家中村八大、喜劇女優丹下キヨ子、ココナツ・アイランダーズ寺部頼幸の諸氏をはじめ多くの友人は他界してしまいました。
思えば私がブラジル音楽を耳にした最初は、進駐軍放送WVTR―TOKYOでした。そしてNHKラジオ「中南米音楽の時間」の解説者、ホルヘ的場さんに「ブラジル音楽がほとんど流れない」とイチャモンつけたのが始まりですから、もう70年近くになります。
現在ブラジル音楽は日本に浸透して特にボサノーヴァはBGM(バックグラウンド・ミュージック)として愛好され至る所で流れていますが、本場ブラジルでは1960年代末には完全にと言ってよいくらい死んでしまったのです。
1970年代に学生時代バンドマンだった領事がサンパウロに赴任した時、「なんだ楽しみにしてきたのにボサノーヴァなんて聞けないじゃないか」とこぼしたほどでした。
現在のブラジルではボサノーヴァ・リバイバルとなって、放送、イベントや出版物などで取り上げられていますが、これはブラジル音楽に愛情をもって盛り上げてきた日本人のお陰であるという経緯を誰も知らないのです。
本邦公演するブラジルの音楽家たちは帰ってくるとマスコミに「日本人はボサノーヴァが好きだ」と言及するだけに止どまっています。
ですから私は本誌コラムを通じてブラジルの音楽評論家やジャーナリストが知らない興味ある話を紹介していきますので、皆様の何らかの参考になれば幸いです。
それが「生き残り」の使命だと思っております。