2.おてもやんの初恋と花嫁修業
私はおてもやんのようだった。熊本では女性はおなごというんだけれども、私は器量がいいわけではないが、まあほがらかなのがおなごには重要だった時代に生まれたのだから。
実は、いまだから、言うけれどもね。このおてもやんだってお慕いしていた人がいて、その人にも好かれていた。恥ずかしいね。あのときの気持ちを思い出すと、ふわっとする。ああ、いい人だった。とても気立てがいい。秀才だったよ。
でも、いい人すぎたんだね。あれは、夏の休みに熊本の実家に戻ってきたときのことだった。大学が終われば故郷(くに)に戻って、家業を継ぐことになっていた。私も久しぶりに会いに行った。いそいそと出かけたのだ。きっともうそのときのいっちょうらを着ていたと思う。残念ながらそれを見せることはなかった。
ちょうど声をかけようと、かたんと庭戸をあけて入ろうとしたら、私より先にちょうど女学校の同級生が先にずんずんと入って行って、こともあろうか、縁側から上がりこんで後ろからあの人に抱きついたんだ。
そんなところを見たら泣いて帰るしかない。え、そんな女に文句言えばよかったって。そんな時代じゃなかった。それに私はとても純情でね。もう私の恋しい人に汚された気がした。案の定、その後、押しかけ女房になってしまったんだ。
だったら私は邪魔でしょ。いやきっと、やさしいあの人だから、私をかわいそうに思うにちがいない。あの人が悲しい瞳をするのを見たくなかった。ちょうどそのとき、親戚ともいうべき仲良く家族づきあいをしていた人達のそのまた親戚の青年が年頃で、遠い離れたアルゼンチンで花嫁を探しているという縁談が来た。
家族ぐるみで付き合っていた家の関係なのだから、きっといい人に違いないと、どんなところか想像もしなかったけれども、渡りに船というのはまさにこのことで、はい、と言ってしまった。実はアルゼンチンなんて、アの字も知らないどころか、外国という以外は何も知らなかった。だけど、結婚を決めたんだ。
すぐにその家に入って花嫁修業をしたよ。ちょうど女学校を終えたばかりだったから、どんな家風だったのか、覚えるのは簡単だった。実家の味噌汁の味を覚えるのが一つの大事な仕事だった、そんな時代だった。もともと家族ぐるみの付き合いの親戚の親戚だからそんなに違うこともなかった。
ちょうど、おにいさんのお嫁さんに赤ちゃんが生まれたばかりで、私はその子をかわいがり世話をした。ときにはまるで自分の子のように、おかげで練習ができたと後で思った。幸せに包まれたその家で夫がいないのにもかかわらず、私はそのお嫁さんでその子は甥にあたった。
おむつをかえてよしよしと抱きかかえて背中をトントンとするとすぐ寝てくれるいい子だった。一姫二太郎がいいというけれども、そんなことはなかった。そうそう、そのうちは医者の家だったんだ。あの頃は跡取り息子が大事でね、次男にはほとんど何も残りはしない。三男なんて何をしたらいいかわからない。だから外地に出る人が特に熊本や鹿児島には比較的多かった。後に帰国し、故郷に錦を飾る人たちもいた。(つづく)