4.長い船旅の後
アルゼンチンに長い長い船旅の後、ぐっすりとした眠りから、はっと目が覚めたのは、迎えが来たという合図があったからだった。本当はどんなことを言われたのか皆目見当がつかなかった。
アルゼンチンではカステシャーノというスペイン語という言葉を話すが、英語でもフランス語でも当時の私には同じことで、さっぱりわからなかった。その状態で何年も住んでいるけれども今でもカステシャーノは細かいことはわからない。
結局は何をすればいいか、状況がわかりさえすればよかった。小さな行李などはひと梱(こり)つまり、一個ぐらいは運べるが他はどうしようと思ったが、まずは荷物をまとめて表に出た。夫が迎えにきていた。初めて会う夫であった。
大きな背の高い人達の中では少し小さめだけれども中肉中背、普通の日本人だったことに少し安堵した。くまお、と言ったのはむしろ熊本だからではない。名は体をあらわす感じで朴訥であるが大変やさしそうな人だった。
他にも花嫁が何名か乗船していたことなど、すっかり忘れた。私の迎えが一番先だったのか後だったのかそれはもう覚えていない。覚えているのは、そのとき、私はただ、この人についていけばいいと思ったし、他にやれることもなかった。
カ子(かね)です、どうぞよろしくお願いします。頭を深々と下げて、しおらしい娘のようにと両親に言われていたとおり挨拶した。うん、と低い声を一言口から放ったその人は、籐(とう)で編んだ行李だけではなく、頑丈な茶箱などの重い荷物も軽々と運んでくれた。そのままついて行ってカルアッヘと呼ばれる馬車に乗り込んだ。
荷物は上にあげられ、しっかりとくくりつけられていたときだった。手が差し出された。一瞬ためらわれたが他に方法がないので手をとって、私も乗り込んで座ったら、またゆらゆらとしていた。ブエノスアイレスの港から今でも車で一時間以上かかる距離である。
このブルサコという街まで当時はまだ未舗がほとんどでわずかの石畳の道があった。それを、御馬でカタカタとどのぐらいかかったのだろうね。何時間かかったのかまるで覚えていない。それよりも、道中、夫はなんも話してくれなかった。
これが本当にこの世で一番寂しかったのを覚えている。心細かった。九州男児、特に熊本の人は無口で何も言わないこともあるし、何を考えているのか全くわからないこともあることはわかっていた。
しかし、長い船旅してやってきた花嫁に何か話してくれてもよいだろう。どんなところに行くかもしれない。どんな人に会うのかもしれない。何か説明はあるのだろうか。そんなことを思っていたがしかたない。
何の口もきいてくれないのだから、こちらも黙っていた。ときにわからない言葉で話しかける御者と夫は一言三言交わしていたと思う。
しかし、わたしにはだんまりであった。次第に街灯が一つ、そのまた一つとつきはじめた。その黄色い温かい光は周りを照らし、この街がわたしをあたたかく歓迎してくれているようにみえた。
しかし、私がはるばる故郷の熊本からやってきたのに、夫は依然黙ったままであった。故郷のこと、家族のことたずねてもよさそうであったのに、もしかしたら、口がきけない人なのかもしれない。そんなことまで道中思わせられたが、わたしはゆらゆら、カタカタの振動音だけではなく旅の疲れが出たのだろう、いつの間にかうとうとしてしまった。だから幸いそれ以上の心配はなかった。
(※注=「カルアッヘ」carruajeは馬車のこと、「カステシャーノ」アルゼンチンで話されるスペイン語のこと)