5.新居に先輩
そんな不安もブルサコというこれから何十年も住む安住の街に着いて、すっかり吹き飛んでしまった。先に来ていた花嫁移住の女性が二人で待っていたから。
先輩とも言えるその人たちは着くなり、長旅でおなかがすいたでしょうとねぎらってくれて、すぐに食卓には、ごはんと味噌汁が並んだ。そのゆげの後ろで見えなかったのが幸いで、少し涙が出そうになった。
しかしこれはこらえて、いただきますと手をあわせて感謝の気持ちで食べ物をほおばり始めた。御飯を食べることは大事であるから、いただきますと収穫や空に雨に感謝の気持ちを捧げるのが常だが、あの夜はあんなに料理してくれた人に言ういただきますに、ありがたい気持ちをこめたことはなかった。
思えば船を降りてから何も口にしていなかったのだ。何時間経っていたのだろうか。二人の女性はわたしたちは少ししみったれだから薄いかもしれないけれどもと言いながら、終始笑顔で御茶を入れてくれた。緑茶もあったのだ。しかし、貴重品らしい。
一生で一番おいしい心のこもった温かい御茶であったから、ごちそうさまと再び手を合わせた。明るくなったらまた来るから、明日荷物を見せてね、と近所に住んでいるらしい二人は笑顔で帰っていった。
さあ、また二人きりになった。御者がいたから本当の二人きりは今からであった。だんまりは相変わらずであったが布団をしいてくれたのは、勝手がわからない私だったから仕方がなかったかもしれない。
それをありがたく思ったとたん、おやすみ、と半ば大きな声で言い先に休み始めた私の新郎であったのであるが、夫も実は行きは一人であの道程をブエノスアイレス港まで行ったのだからきっと疲れていたに違いない。
何にも言わない人だったけれども何を思っているか少しずつわかるようになったのは、やはり夫婦になったからだろう。
翌朝、先輩と慕い始めた二人の女性が戻ってきた。嬉しかったのは一瞬にして困惑に変わった。というのも、私の荷物を開けて品定めを始めたからだ。この柄はどうの、こうの、とやり始めたから、私には正直とてもうとましいことに思えてきたからだ。
しかしながら、実際にはそれらの着物をするすると慣れた手つきでほどき始め、洋服を作ってくれたのだ。洋服は生まれてこの方着たこともなかった。当時日本では、着物というのは衣類の代名詞であった。
ブエノスアイレスの郊外で、今でいう未舗装の道、その当時は普通の土道で移動するには、日本の着物姿では立ち往生するしかなかっただろう。初めて洋服を着たときは下から風がたくさん入ってきて、スースーしたのを覚えている。しかし一度着てみると便利で支度に時間もかからない。
多少のやっかいさは人間関係につきものかもしれないし、日本でさえ熊本を出たのは生まれて初めてで、とうとうブエノスアイレスに到着しただけなのだから、やはり他の人と交わることを学ばなければならない。そして先にアルゼンチンに来ていただけなのに、やさしく世話を焼いてくれる先輩の二人には感謝の念を持つべきだと心した。
(※筆者注=デザイナー高田賢三氏がパリで着物をほどいてデザインした洋服を発表し絶賛されたのだが、移住女性はそれより先に着物から洋服を作っていた)
(つづく)