6.洗濯屋と頼母子 1
仕事は、洗濯屋であった。洗濯屋というと変な感じがするだろう。今でいうクリーニング屋であるが、当時は衣類を受け取って、たわしでごしごしと手で洗ったものだ。洗濯が十分にできる家庭は稀な時代だった。
家の下働きにさせるか、まとめて洗濯屋に出すのが普通なことで、特にアルゼンチンの人たちはお洒落な人々だった。カミッサと呼ばれるシャツに、アンボと呼ばれる上下揃えのスーツもあった。
週末になるとお洒落をして颯爽とレストランに向かったりする習慣があった。そういえば映画館も靴にネクタイでないと入れなかった。女性の大きなひだのあるドレスも、ヨーロッパに洗いに出していたという逸話がある。
私が到着した当時のアルゼンチンは世界の食糧庫として栄えて裕福であったのだからあり得る話であろう。ただ、洗濯屋が近くにあれば別である。アルゼンチンの洗濯屋を利用する。スペイン語ではティントレリア。染物業という意味であったが染物はせずに洗濯をした。
下着、靴下なんでも洗うようになった。アイロンまでできれば一番いいがそこまで必要ではない場合もあり、創業の資本金も比較的少なく済んだ。最初は上流家庭相手がだんだん庶民にも利用されるようになった。
アルゼンチンで1912年最初のティントレリアの一人は同郷の熊本の女性でおツタさんと呼ばれた。最初はブラジルに笠戸丸移民として渡ったがコーヒー農園での夢破れ、アルゼンチンに転住した人達の一人であった。ブエノスアイレスでは女中奉公から始めて独立していったらしい。
アルゼンチン家庭でスペイン語を学び、その後土地に慣れてくると、その家庭の洗濯の仕事を持って定期的な収入を得て、別の家庭から洗濯の仕事を請け負うようにしたのだ。
もちろん、私なんかには雲の上の人で足元にも近寄れる身分ではなかった。しかし、おツタさんを頼って修行した若い人達も多かったという。また、日本人は仕事が丁寧で清潔好きという評判を確立してくださった方の一人だった。
※注=カミッサ(camisa)襟付きのシャツ/アンボ(traje ambo)上下揃いのスーツ/ティントレリア(tintorería)染物店、染色店、現在はクリーニング店だが当時そういうカタカナの職業名はなかったので一般にせんたくやと呼ばれた/プランチャ(plancha)アイロン