連載小説=おてもやんからブエノスアイレスのマリア様=相川知子=第7回

1925年着、1930年開業の新屋敷忠・清武・清忠兄弟の洗濯屋「日本女性」Tintorería La Japonesa 。日本人営業洗濯店と分かりやすい名前。真ん中は電気アイロン(佐藤四郎氏撮影、在亜同胞活動状況写真帖61ページ)
1925年着、1930年開業の新屋敷忠・清武・清忠兄弟の洗濯屋「日本女性」Tintorería La Japonesa 。日本人営業洗濯店と分かりやすい名前。真ん中は電気アイロン(佐藤四郎氏撮影、在亜同胞活動状況写真帖61ページ)

洗濯屋と頼母子 2 プランチャ

 その後、機械が導入され始めた。特にプランチャと呼ばれるアイロンの機械が導入された。日本人洗濯屋一軒で外国製の機械を買うのは大変なことで、最初は分割払いなどなかなかなく、ある程度のお金をまとめなければならなかった。
 日本人移住者はある人が成功するとそこに弟子入りしてその後独立するのが常であったが、資金面の問題も常であった。志だけは大きい、しかし日本から資金を持ちこまなかった若者が急に独立して店を構えるのは無理なので、どうしようかと考えに詰まる人も多かった。
 しかしそこはよくしたもので、頼母子(たのもし)という仕組みが私たちの間でおこなわれていた。それぞれの計画を発表し頼母子という、互助会にて資金を出してもらう、もしくは当てるのである。店を出すだけではなく機械を購入するのに私たちはその頼母子(たのもし)を使った。
 頼母子に参加する人々はそれぞれ参加の会費を支払う。例えば一カ月に一度なら月の会費のようなものだ。またその際に飲めや歌えで交流をしていく。そして最終的にその日もしくは数日の会で貯まったお金をどこに誰に使うか決める、もしくはそれを抽選で当てるのである。
 一度使えばそれをまた次の会で払うのはいわば支払いを月ぎめで行っているようなもので、そしてその会に継続して所属していなければならない。そのため、重圧に感じて逃亡するものも数名出たこともあるが、大概は専ら余暇のない毎日働きどおしの私たちの息抜きのようなものでもあった。

飲食をする親睦会も兼ねていた頼母子(たのもし)のある日の場面。提供の勢礼アナ氏の祖父母経営の  Café Tulipan にて。当時花市場があったレティロ地区に日本人経営喫茶店があった
飲食をする親睦会も兼ねていた頼母子(たのもし)のある日の場面。提供の勢礼アナ氏の祖父母経営のCafé Tulipan にて。当時花市場があったレティロ地区に日本人経営喫茶店があった

 その当時はどこかのレストランに行って外食するなどは全く考えられないことだったから、特に、頼母子の会場になったうちでは、みなさんにふるまうための、おさんどんが大変で、さらに食事や飲み物を工面し工夫する必要があった。しかしながら、何をしても大変なのだから、私には苦にならなかった。
 おかげで導入できたのは、ホフマンというドイツ製のプランチャ、大型電気アイロンであった。電気が導入される前は、それまではカルデラと呼ばれるボイラーにカルボンという炭を入れ火で温めたり、もしくはアイロンそのものにカルボンを入れることもあった。
 電気アイロンは今度は身の丈の三分の二もあるような機械アイロンを押し当ててズボンをプランチャする。それからアイロン台は細長く平らであるが角がなく両端は丸くなっていた。そこを利用してスーツの肩の辺りの形をきれいにプレスすることができた。
 袖にさっと手を入れて綺麗に整えるなど、手作業はすぐ覚えることができて、お客さんから器用だな、日本人の手は魔法の手だと言われた。下にあるペダルを巧みに踏んでスチームを出す。繁盛しているころはスチームのゆげに包まれて冬場はいいが夏場は大変な汗だくの作業であった。
 さらに、プランチャのレバーをまず下げるには背がある程度高い必要があった。ドイツ人の体に合っているのだから仕方がないと、最初にレバーをおろすとき、夫は椅子を台にしていたぐらいだから、私なんてとんでもなく小さい体なのだからそんな力はなかった。もっぱら店の横や裏にも作った流しで、まずは水洗いをして、裏庭に干すのが役目であった。
※注=カルデラ(caldera)ボイラー/カルボン(carbón)カーボン、炭/プランチャする(planchar)アイロンのplanchaがそのまま日本語と混じって動詞になった。アイロンをかけるという意味

 

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