8.庭の梅
忙しい毎日であったが、ときに洗濯物を干しながら、上を向いてアルゼンチンの青空を見渡し、ふーと息をはくこともあった。少し視線を下すと、梅の木がそろそろと育っているのが見えた。
結婚式は熊本で新郎なしで行われたし、こちらに着いたって祝言も何もなかったが、夫の心は庭に植えてくれた梅で分かった。私が到着した次の日に植えた梅の苗はすくすくと成長した。夫は時に水をやりながら優しい眼差しをかけていた。
私は洗濯物を干す度にブエノスアイレスの澄み切った水色の高い空を眺めながら、この空は熊本に続いているのかと想いを馳せた。気持ちが熊本に届いたかのように涙が出ても、上を向いているので流れない好都合であった。
そして、自分の子供と同じように梅の木を愛でた。植物も人の気持ちがわかると言われることがある。毎日、二人で眺めていたらどんどん大きく立派になってきたように感じた。
その頃に私は妊娠し、初めての子どもが生まれた。栄あれ、と、栄子(えいこ)と名付けた。栄子は明るい子で近所の人にもきちんとお辞儀をして礼儀正しい子に育って行った。私はそれが嬉しくて、日本人の家でも日本人以外の人達をあの頃は外人(がいじん)と言った。どんな御宅にも小さい栄子を連れて行くのが誇らしかった。
おかげで、その縁もあり、私は隣の家にそのまた向こう三軒にお茶会に呼ばれるようになった。こちらの人たちにとって夕方の時間とは、日本人には夜かもしれない。午後6時頃にお茶会で軽いものを食べて、また午後9時頃に夕食になる。私にとってはその軽食はもう夕食も同然なものであったから、夜はおなかいっぱいであった。そうして交流をすると自然に洗濯ものを頼まれ商売も繁盛した。
娘の世話をしていただけで幸せであったが、そのまた第二子をみごもった。ちょうどその時期、自分たちで手で洗っていただけだったのが、だんだんとドライクリーニングの設備を入れることができるようになった。
アイロン作業専門のプランチャドールというアイロン職人を雇い入れれば仕事ははかどり、また働けた。働いている私の背中の後ろから、ふと栄子が洗濯ばさみが落ちたとつつき、はい、どうぞ、ときちんと日本語で言うのもまたかわいかった。
栄子はたいそう利発な子だった。家でもどこでも私が日本語で話しかけているだけなのであるが、よく聞いていた。そのうち、日本語を上手に話すだけに留まらず、質問攻めにされた。ある日の問答はこうだった。
「お母さん、私たちは日本人よね。外人(がいじん)は何(なに)」「外の人という意味だから、アルゼンチンの人達のことよ」と答えたら、近所の子の真似だろう、人さし指を自分の頭を刺してひねりながら「ちょっとおかしいよね。外の人はお母さん。私はアルゼンチン生まれ」言われてみればそのとおりであった。私はおかしくて声をたてて笑った。