前田光世の足跡辿る取材陣=柔術ドキュメンタリー製作進む=4月にマナウスで上映会

マナウスからの取材チーム
マナウスからの取材チーム

 ヘラルド・ダニエル監督による柔術ドキュメンタリー映画『O CLÃ DAS JIBÓIAS(大蛇の一族)』の製作が昨年から進められている。1月31日から2月3日にかけて、アマゾン地方に柔術の種を蒔いた講道館柔道の前田光世(通称コンデ・コマ)を取材するため制作陣がパラー州ベレン市を訪れた。

 一行のベレンでの取材先は、前田光世の眠る州営サンタ・イザベル墓地や、彼が亡くなるまで住んでいた住居、コンデ・コマ道場跡やベレン市内柔術道場など。関係者インタビューとして、朽ち果てていた前田の墓を修復した空手家町田嘉三八段とアマゾン日本人移住史研究者の堤剛太氏が取材を受けた。
 『O CLÃ DAS JIBÓIAS(大蛇の一族)』では、前田光世や前田と共に世界を歴戦し、アマゾニア州マナウス市に定住した佐竹信四郎四段、ブラジリアン柔術を編み出したグレーシー一族について描かれる。映画はマナウス市後援のもと4月6日に、市内劇場で上映会が催される予定だ。

日本の格闘家も訪問する前田氏の墓。町田嘉三八段、石井慧(柔道金メダリスト)堤剛太(左から)
日本の格闘家も訪問する前田氏の墓。町田嘉三八段、石井慧(柔道金メダリスト)堤剛太(左から)

 前田光世

 ブラジリアン柔術(グレーシー柔術)の開祖と言われ、コンデ・コマの愛称で知られる。嘉納治五郎より柔道普及の命を受け、講道館四天王と言われた富田常次郎六段とともに、1904年に渡米した。
 前田は当時、講道館三羽烏と称された程の実力者だった。2人は、陸軍士官学校やプリンストン大学などで模範演技を行った。富田六段は日本へ帰国したが前田はそのまま米国に残った。
 ニューヨークで道場を開いた前田だが、思ったように柔道を学ぶ人がおらず、柔道を大衆にアピールする為に異種格闘技公開試合を開催した。
 初めての対戦相手は、ヘビー級の巨漢レスラー(身長180cm、体重110kg)。前田は身長164cm、体重64kgと小柄であった。前田はこの試合で勝利を収め、この後も次々に挑んでくるボクサーやレスラーたちをマットに沈め、この地で一躍英雄となった。
 前田は、さらなる戦いの場を求めて米国からヨーロッパへ渡り、イギリスやベルギー、スペインなどを歴訪。体格の勝る強豪を相手に勝利を続けた。一説に寄れば、前田の華麗な戦いぶりに、人々はいつしか前田をコンデ(伯爵)の称号で呼ぶ様になったという。
 前田は、同じ講道館柔道の佐竹信四郎と共にキューバやメキシコへも足を延ばしその後、南米大陸へと渡った。サンパウロを経由してベレンの町へ辿り着いたのは1915年11月。ベレンの街に永住した前田は晩年、南米拓殖会社によるアマゾン開拓に大きく貢献し、1941年11月28日に62歳でその波乱の生涯を終えた。
 グレーシー柔術の創始者カルロス・グレーシは、10代の頃ベレンのコンデ道場で柔術を学び、リオ・デ・ジャネイロへ移転後、弟のエーリオと共に彼ら独自の柔術を編み出した。
 アマゾニア州マナウス市には、ブラジリアン柔術の道場が大小合わせて200か所あり、約1万人の若者が稽古に励んでいるという。
 1916年からマナウスに居住しリオ・ネグロ・スポーツクラブで柔術・柔道を教えていた佐竹四段は、1934年に日本へ帰国しその2年後に死亡している。

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