9.子どもたちの教育と日本語学校
アルゼンチンでは昔も今も学校への送り迎えは、連れて行ってうちに帰り、また迎えに行って戻らなければならない。親の大仕事だった。
一般にアルゼンチン生まれの日系子弟は日中は地元の小学校へ行き、アルゼンチンの国語のスペイン語で勉強を習い、家庭では日本語で話すという生活であった。ちょうど子どもたちが小学校に上がるころになった。
そのころ、私たちの国語である日本語を教えてくれる日本語学校がスペイン語といっしょに教えるバイリンガル校として創設されて軌道に乗り出したころだった。子どもたちは1934年創設のブルサコ公認在アルゼンチン日本語小学校に通うことができた。
折しも首都のアバスト市場の近郊ということから、この地域には蔬菜農家が増えていた。日本人蔬菜組合が結成され、住民が増えれば、日系子弟が増加し、教育は重要な課題である、と会長の石川倉次郎さんが提唱してくださっただけではなく、資金援助までされた。
その当時はどこでも日本人移住者が増え始めていた。首都ブエノスアイレス市から北は同時期にブエノスアイレス州サンミゲル市にも幼児教育部ができた。その子たちの識字教育のため、続いて双葉小学校が1937年創設された。ほぼ同時期にアルゼンチンの第二の都市と言われるロサリオ市にも、また、そのサンタフェ州の州都サンタフェ市にも国語教育を母体として日本語学校が設立された。続いてブエノスアイレス州の西のモロンにも、北のエスコバール市にもできたと言われている。
アルゼンチン生まれの子供達は日系子弟とも、二世とも呼ばれた。
概してそれぞれの日本語学校の発祥は、日本人の青年を見つけて二世に読み書きを習わせたところから始まる。その頃、この地域の日本人は花卉栽培を始めるところであった。ビベロというビニールハウスの温室で花を栽培していた。
お洒落なアルゼンチンの人達は、衣類をクリーニングするだけではなく、花を買って家を飾るという悠長な生活をしていた。美しい生活を送られるおかげで、私たち移住者は仕事にこと欠かなかった。
その青年も実は温室での作業のため、はるばる海を渡ったのであるが、花とは言え、水やりなど結構な力を使う仕事であった。志は立派でも体力的に難しく優しい気立てだったので、空いた時間に近所の子供たちに教えていたら、いつのまにかうちの子も、と人が集まってきたのだ。
だから先生のために学校を作ろうという段になり、日本語学校が生まれる素地ができた。日本語学校ができたら、主に学校のための資金集めの活動を行う維持会ができ、それから日本人会が結成されていった。
日本人たるもの異郷の地で国語をしっかり学ばせないといけないという目的もあったので、日本語学校が軌道に乗ると、わざわざ日本から専門の先生を呼び寄せることもあった。先生は厳しかったかもしれない。特にアルゼンチン生まれの二世にはまた日本とは環境が違う。
しかしながら、先生に任せていれば安心と思う時代でもあった。私たちは家業もあり、家では日本語で話すが、なかなか読み書きそろばんを十分に見てやれなかったので助かった。また修身という礼儀なども教えてもらった。
※注=「ビベロ」(vivero)植物を育てる温室