10.日本人の評判 1スペイン語(カステシャーノ)
子どもたちに日本語教育には熱心でも、私たち移住者たちはアルゼンチンの国の言葉はどうしたかと聞かれても、私自身はどうやって覚えたのか。もちろん最初は全然わからなかったし、今もまあそう。
この国のレングアはカステシャーノと呼ばれる。カステシャーノなんて、それはもう働きながら生活しながら何とか用を足せるように覚えただけ。ティントレリアというのは衣服を洗う仕事なのだから、その衣類の名前の数は限られている。
だからそのリスタを持っていればね、そして値段があるのだから数字はわかる。それだけで商売ができるという算段であった。日本人の教会などで到着したばかりの人達へカステシャーノ勉強会などをしていたところもあったそうだ。
日本人の仕事と言えば、当時は喫茶店のカフェで給仕などをしてお客さんの応対をするボーイだったり、家庭に入って女中や丁稚奉公、運転手などの職業も比較的言葉の問題が少なかった。
日本で大学を出ていたって、こっちじゃあまずはカステシャーノができないとお話しにならないからと、熱心に学んだ人は夜間の小学校から始めた人もいる。アルゼンチンの大学を出た人もいたそうだ。
もっとも、日本人には寡黙な人が多かったし、おしゃべりも、カステシャーノがあまりわからないから話についていけず黙っているしかない。
だから、当時のカフェに行く人達の間での秘密の話には日本人給仕は持ってこいだったということもあり、訳がわからなくてたくさんプロピーナと呼ばれる心付けをもらっていて、実は日本で働くよりも収入が高くなる人もいた。
もちろん、積極的にコーヒーの口直しの水の替わりを常時用意して必要なときにはさっと出すように気をつけている、などの努力もあったようだ。外人はね、モッソーと呼ばないと来ないんだけれども、日本人は気が利くからねぇ。
当時は求人は現地の新聞にも邦字新聞にも出されているのを見つけて応募していたそうだ。邦字新聞に日本語で出して、日本人を積極的に雇用するところもあったからね。もちろん場所によっては口伝えで探していると相談があり、紹介で行くことも多かった。自分で求職していると出す人もいた。
1902年創業のブラジル人経営カフェ・パウリスタの支店で日本人のモッソが多く働いていたのは辛抱強く働くからだった。そこで仕事を覚えて集まって共同経営して独立したんだ。そこにまた丁稚奉公をして、その後独立して自分の店を持つその繰り返しだった。
働けば働くほどその甲斐があったから、仕事には用は足せたがやはりカステシャーノがうまくなる人は稀だったから、私も同じようなものだし、他に何をするって・・・働いて働いてあっという間に時が過ぎていった。
※注=レングア(lengua)言語/カステシャーノ(castellano)スペイン語(国語的にこういう)/リスタ(lista)リスト、表のことでスペイン語の lista に影響された日本語/プロピーナ(propina)チップ、アルゼンチンでは喫茶店では当時も今も応対してくれた給仕にチップを渡す/モッソ(mozo)ウエイター