連載小説=おてもやんからブエノスアイレスのマリア様=相川知子=第11回

1947年11月、国民花祭会場(Fiesta Nacional de la Flor)で、ペロン大統領夫妻に花束を贈呈したエスコバール日本人会の丸岡ネリさんと安斎アリシアさん。ブエノスアイレス州エスコバールは花の都として有名で日系花卉栽培者が築いた功績が認められている(Luisa Hayashi氏提供、在アルゼンチン日本人移民史戦後編<FANA発行>98ページ)
1947年11月、国民花祭会場(Fiesta Nacional de la Flor)で、ペロン大統領夫妻に花束を贈呈したエスコバール日本人会の丸岡ネリさんと安斎アリシアさん。ブエノスアイレス州エスコバールは花の都として有名で日系花卉栽培者が築いた功績が認められている(Luisa Hayashi氏提供、在アルゼンチン日本人移民史戦後編<FANA発行>98ページ)

11.日本人の評判

 2 ペロン

 フアン・ドミンゴ・ペロン(注)という人がいてね。恰幅がよかった、少し背が低かったけれどもね。大佐で大きな家に住んでいたからいろいろな奉公人がいて、日本人を雇っていた。小間使いや運転手だけではなく、庭師として働いている日本人もいた。
 実は最初は庭師の専門家ではなかったのだけれども、だいたいの日本人は田舎で草木に囲まれて育つような毎日を送っているからね、にわか庭師でも結構立派な働きをしたようだ。
 もちろん最初は、いろいろわからないこともあった。例えば球根などは見たことがなくて、上下反対に植えてしまったことも実はあったらしい。
 ある日、主人がこの植木はあちらに植えてと、植物の移動を頼んだが、私は庭師だから庭の植物のことはあなたより分かっている、季節や成長の時間を考慮に入れて庭を作っていきましょう、任せておきなさい、と堂々と話したそうだ。
 そのため日本人に一目置いていたらしい。このような日本人の働きぶりを知っていたから、後にこの人が大統領になった際、農業技術などを持った日本人が移住することを法令で奨励したそうだ。
 戦時中、敵性国家の民として、日本大使や商社の人たちはコルドバの郊外のエデンホテルに収容されていた時期もあった。ただし、収容とはいえ、ホテル暮らしの優雅なものでペルーやアメリカのような厳しい強制収容所の扱いは受けなかったし、1年足らずと短かったのも日本人は優遇されていたことの証の一端だと言われている。

集団洗礼時のペロン大統領(右)と、学業のため幼い頃日本に戻り戦後帰る術がなくなった二世がアルゼンチンに帰国できるよう大統領に働きかけた小河貞蔵氏(Alba Ogawa提供、在アルゼンチン日本人移民史戦後編<FANA発行>82ページ)
集団洗礼時のペロン大統領(右)と、学業のため幼い頃日本に戻り戦後帰る術がなくなった二世がアルゼンチンに帰国できるよう大統領に働きかけた小河貞蔵氏(Alba Ogawa提供、在アルゼンチン日本人移民史戦後編<FANA発行>82ページ)

 もっとも日本人経営のカフェが終息したのは、時代の流れや輸入コーヒー豆の経済問題もあったが、ペロンがとどめを刺したおかげだと言われているね。労働者を保護して地位を高めちゃったから経営側にはたまったものではなかった。
 大騒ぎするんだよね。みんなで集まって。だから洗濯屋の仕事を覚えたいと頼みに来る人がいたよ。うちにもね。しかし後で権利を主張し始められたらたまらない。小さい家族経営なんだから大きいところへ行ってもらうしかなかった。
※編集部注=「フアン・ドミンゴ・ペロン」はアルゼンチンの第29代大統領(1946~1955年)、第41代大統領(1973~1974年)となったカリスマ政治家。彼の支援者や支持者「ペロニスタ」が母体となった正義党は、現在でも同国内で大きな影響力を持っている。

 

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