連載小説=おてもやんからブエノスアイレスのマリア様=相川知子=第15回

ラファエロ画・『大公の聖母』(ラファエル, Public domain, via Wikimedia Commons)
ラファエロ画・『大公の聖母』(ラファエル, Public domain, via Wikimedia Commons)

15. 私はドーニャ・マリア、マリア様

 近所の移住仲間同士、気心がしれてときどき集まった。イタリア、スペインはもちろん、この地域にはポルトガルから来た人も多かった。共通語のスペイン語は全くうまくならないが少しは理解できるようになり、また、仲良くするのは楽しかった。
 最初は女性ばかりであったがその友達や連れ合いも呼び込んで、午後のお茶会の輪はだんだん大きくなっていった。
 名前が分からないころはセニョーラと呼ばれたが、そのうち、それぞれの名前で呼び始めた。この国ではイタリア系はターノ、スペイン系はガジェゴ、またはガジェガとそれぞれの出身の国や地域の愛称があり、日本はスペイン語でハポンなのであるが、ポンハとひっくり返して呼ばれることもあった。
 しかしながら、このポンハというのは、愛情の意味があったり、ときは実は軽蔑の意味があったり、複雑であったからなのだろう。
 そうしているうちに、私の日本人の名前で呼ぶのは難しいし、アルゼンチンの名前を持ったらいいと、スペイン語の名前を持つよう勧められた。
 しかし、そんなことを言われても、と戸惑っていると、一人が「あなたは慈悲深い心があり、とても優しい人、マリア様のようね」と日本語にするともう、穴があったら入りたいぐらい恥ずかしいことをいうので私は真っ赤になってしまった。
 そう、日本人には口に出せないことをはっきりと移住仲間のセニョーラは言ってくれた。私はキリスト教の洗礼も受けてはいないし、第一イエスキリスト様の御母堂の御名とは、もったいない、もったいない。ナマンダーナマンダーしかできないのです、と手を合わせて唱えるばかりだったのに。
 実はそのころとても悲しい出来事があった。悲しくて悲しくて私はとうとう仏教の経典をそらで詠めるほど唱えることができるようになっていた。だから、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と毎日お仏壇を前に唱えていたのだ。
 仏経典をよむドーニャ・マリア、マリア様で大丈夫ですか、と心配して皆にたずねたら、タビエン、タビエンと相変わらずやさしい言葉をかけ皆で抱擁してくれた。
 嬉しくて思わず手を合わせて拝んだら、ドーニャ・マリア、ムイビエン(マリア様、大変結構です)と拍手喝采された。それからというもの、私はドーニャマリア(マリア様)と呼ばれるようになった。

毎年2月の夏開催カーニバルに興じるアルゼンチンの人々(在アルゼンチン日本人会日系社会歴史アーカイブ蔵、佐藤四郎氏撮影、Archivo Histórico de la Colectividad Japonesa. Asociación Japonesa en la Argentina)
毎年2月の夏開催カーニバルに興じるアルゼンチンの人々(在アルゼンチン日本人会日系社会歴史アーカイブ蔵、佐藤四郎氏撮影、Archivo Histórico de la Colectividad Japonesa. Asociación Japonesa en la Argentina)

 1536年2月3日、スペインからペドロ・デ・メンドサ総督がまだアルゼンチンと呼ばれる前のこの地に上陸したとき、今のブエノスアイレスがある地域一帯をNuestra Señora de los Buenos Aires(ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロス・ブエノス・アイレス)と名付けた。
 だから、同じように、このマリアは海を越えてきたのだから。ドーニャ・マリア・デ・ブエノスアイレスでいいじゃないか、と言っていたような気がする。
 おしゃべりもろくにできず、うんうんとうなずくだけなのを受け入れてくれた人たちのおかげで、ドーニャマリアができあがってしまった。
 かくして私はおてもやんからブエノスアイレスのマリア様となったのである。  
※注「セニョーラ」(señora)既婚女性、奥さんという感じで呼びかけにも使う/ターノ(italiano)の省略形 tano/「ガジェゴ」(gallego)スペイン、ガリシア出身の男性/「ガジェガ」(gallega)スペイン、ガリシア出身の女性/「ハポン」(Japón)日本、ポンハ、Ponja、音節をひっくり返すのはもともとは隠語。これが日本人の愛称にも蔑称にも文脈により意味が変わる)/「タビエン」(Está bien)スペイン語でだいじょうぶの意味であるが、移住者の耳にはsが聞こえなかった/「ドーニャ」(doña)様、殿の女性形/「アミーゴ」(amigo)友達、一般に男性形であるが、移住者日本語の文脈には女性も男性も複数も同じアミーゴを使うことが多い。

   

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