《記者コラム》日本の教科書に出始めた南米移民=今は地理中心、歴史はこれから?

県連日本祭りや七夕祭りの写真が教科書に

 日本国外務省からの連絡により、日本の中学校で現在使用されている令和3(2021)年度版の地理教科書には、全て日系人に関する記述がみられることが分かった。中でも、日系人に関して1ページにわたって説明するものが2種類もあるという。移民に関する認識がその分、深まってきたと有り難く感じる。
 中学校の地理教科書のうち最も使用されているのは帝国書院で、使用率は全体の50・8%。本文の記述のほか小コラムを掲載しているという。
 その次に使われているのが東京書籍(同38・8%)、続いて②教育出版(同7・9%)。この二つの出版社の教科書では、それぞれ1ページを割いて移住や開拓の歴史、現在の状況などを紹介している。
 さらに4社目の日本文教出版(同2・5%)でも、日本祭りの写真掲載と共に日系移民の歴史に触れている。
 県連日本祭り、サンパウロ七夕祭りの写真が日本の教科書に軒並み掲載されていると言う事実は、主催者であるブラジル日本都道府県人会連合会やリベルダーデ文化福祉協会(ACAL)にとっても素晴らしいことに違いない。

20年がかりでようやく一歩進む

 例えば、1ページを掲載している東京書籍の122ページの主見出しは《南アメリカで活躍する日系人》で「日本人の移住によって、南アメリカで形成された日系人社会について考えましょう」という補足がつく。南米各国の日系人数の分布図や「サンパウロの日本人街での七夕まつり」「日系人もいる野球のブラジル代表チーム」の写真も掲載され、日系人の存在感を表現している。
 本文にも「日系移民を通して広がる日本の伝統・文化」との小見出しに続き、次のような説明が書かれている。
 《ブラジルにわたった日本人は、日本の伝統や文化を持ちこみました。日本の農作物がブラジルで栽培されたり、農業技術が使われたりする一方、日本の食文化や宗教、柔道といったスポーツも、日本の移民がブラジルの社会に持ちこんで、次第に根付いて行きました。
 現在、南アメリカの国々の日系人は、農業だけでなく、医師や弁護士、政治家などの、さまざまな分野で活躍しています。日本からわたった移民や、子孫である日系人が南アメリカ諸国の発展に大きく貢献してきたことは、現在でも高く評価されており、日本と南アメリカ諸国との友好関係は強く、日本から多くの企業も進出しています》
 これを読みながら「20年がかりでようやく一歩進んだな」――と感慨深いものを感じた。かつてほぼゼロだった時代を思えば隔世の感がある。ありがたいことだ。
 また、文部科学省サイトには学習支援コンテンツポータルサイト(https://www.mext.go.jp/a_menu/ikusei/gakusyushien/mext_00662.html)が設けられ、そこに外務省が提供した《「日本と中南米をつなぐ日系人」「日本と中南米」》という資料もアップされている。日本の学校教師の参考になりそうな、日系人の現地での活躍をコンパクトにまとめた資料なので、ぜひ活用してほしいものだ。

「移民の歴史を教科書に」運動始めた本庄さん

本庄豊さん(本人提供)

 と言うのも、コラム子が知る限り、《日本の教科書にブラジル日本移民の記述を》という記事が出始めたのが、2003年9月4日付ニッケイ新聞《「南米移住史を教科書に」=京都歴史教育者協議会=本庄氏が来伯=専門誌に移住史特集=「学校で学ぶことが重要」》(https://www.nikkeyshimbun.jp/2003/030904-71colonia.html)だからだ。
 当時、京都府宇治市槙島中学社会科教師をしていた本庄豊さんがブラジル調査に訪れた際、「地理の教科書では、ブラジルのところにほんのちょっと、公民の教科書には外国人問題と一緒に少し移民の話がある程度」との現状を述べた後、「移民の存在は、歴史教科書から抹殺されている状態です」と憤慨していたのを覚えている。
 本庄さんは京都府歴史教育者協議会事務局長だったので、同協議会が編纂する社会科教師の専門月刊誌『歴史・地理教育』04年9月号に特集「近現代史の中のブラジル移住・移民」を組んだ。102ページ中の33ページを特集に割くという力の入れようだ。
 これで、ようやくこの問題が日本中の地理・歴史教育に携わる小中高校教師らの目の触れるところとなった。
 本庄さんは04年当時、この問題の大きさや底の深さを、「日本近現代史のなかに移民・移住を体系的に位置づけることは、ある意味では歴史教科書そのものの全面的な書き換えにつながる大きな問題である」と位置付けていた。
 その理由として「ブラジルの大地に集約的農業を普及するなど、勤勉な日系人は信頼される存在になっている。にもかかわらず、日本に歴史教科書にはブラジル移民・移住史についてのまとまった記述がない」「戦後のブラジル移住についての記載もない。デカセギとして30万人近い日系ブラジル人が来日している歴史的な背景や、日本近代史にとっての移民・移住の意味について、日本の子どもたちは系統的に学ぶ機会がない」と残念そうに語っていた。
 さらに目標として「4年後の2008年はブラジル移民・移住百周年の節目の年までに移民・移住史を歴史教科書に記載させていく」と掲げていた。それが21年版の地理教科書では、それ相当に扱われ始めたという流れだ。

アリアンサ移住地に関する偏向記述問題も

 04年当時、ブラジル移住史を研究する、NPO現代座(東京都)の木村快さんも「日本近現代史から抜け落ちたブラジル移住史」という一文をニッケイ新聞に寄せ、「国を挙げてのブラジル移住も、日本の近代史ではまったく無視されたままです。ブラジル移住史に限らず、その後の満州移住史についても、移住を専門に扱う国際協力事業団の年表にも、歴史学研究会編の『日本史年表』にも一切記載されていません。その結果、140万人の日系ブラジル人を生み出した歴史をたどることが大変困難になっています」と論じていた。
 03年当時、木村さんや弓場農場の故矢崎正勝さんらは、アリアンサ移住地について事実と違う歴史が書かれている『長野県の歴史』(山川出版)や『満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』(大月書店)の出版社に連絡をとって、訂正を含めた再検討を申し入れたころだった。
 その詳細について木村さんは現代座サイト(http://www.gendaiza.org/aliansa/lib/11-1.html)にこう記す。
 《「長野県の歴史」(山川出版社・1997年)と「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」(大月書店・2000年)は、ともにアリアンサ移住地を「ブラジル信濃村」と呼び、アリアンサ移住地の建設が長野県民を悲惨な運命に追いやった満蒙開拓における一県一村移住地のはじまりであると述べている。
 かつて長野県は多くの県民を満州移民として送り出し、悲惨な結末を遂げている。両書の著者らは、なぜそのような無責任な移住計画が推し進められたのかを主題にしているわけだが、その発端は「他民族を排除する郷党的親睦思想に基づいてブラジル信濃村(アリアンサ移住地)が建設された」ことから始まり、その「一県一村移住地構想」が満州移住計画の原型となったと主張している》と出版社の記述を要約する。
 これに対し、木村さんは延々と反証を挙げ、《こうした歴史経過は、アリアンサの成功が国の移住政策に大きな影響を与え、利用されたということは言えても、アリアンサ移住地建設が国のお先棒を担いだ事業だったなどとは決して言えないはずである。この現実を両書の著者たちはどう見ているのだろうか》と締めくくる。
 アリアンサには信濃村だけでなく、富山村、鳥取村もある。当地在住者には常識だ。名前だけ見ても、長野県人が排他的に建設したものでないことは明白だ。さらに「信濃村」建設を満蒙開拓移民や義勇軍と短絡に結びつけ、他民族を排除する建設思想などとされては実に迷惑千万な話だ。
 これに関して、研究者の側からもしっかりとした論考がでている。
 共同研究報告書『ブラジル日本人入植地の常民文化 民俗歴史編』(21年3月刊、同常民文化研究所)の中で、歴史学者の森武麿教授は論文《ブラジル移民から満州移民へ―信濃海外協会と日本力行会を対象として―》の156頁で、ブラジル移民と満州移民の関係を3点挙げ、その一つ目に《①ブラジル移民と満州移民の差異は、前者が経済移民であり、後者が軍事移民という移民目的が異なる》とはっきり書いている。
 木村さんが問題にした2書のように「満州もブラジルも移民は一緒」的な乱暴な論調がかつてまかり通っていた。だが、この論文ではしっかり区別されている。ブラジル移民には、満州移民のように屯田兵的な役割は一切無く、純粋な経済行為としての移住だった。日本の研究者がこの件に関して区別してくれるようになってきたことを本当に嬉しく思う。

本庄さん「歴史教科書への記載は今後の課題」

全てがグローバル化して、瞬時に情報が国境を超えて地球を飛び回る世界(Hamproeng、写真ACより)

 冒頭に紹介したような地理教科書には日本移民や日系人に関する記述が出てきているが、歴史教科書には依然としてほんのわずかないことが気がかりだ。
 現在使われている帝国書院の中学歴史教科書では、《日本国内で暮らしていけない人々の中には海外に移住する者もいました。特に、ハワイを含むアメリカに多くの人が渡りました。しかし、後にアメリカが移民を制限すると、移民さきはブラジルや満州などに変わっていきました》としか書かれていない。
 今コラムのために久々に本庄さんに連絡をとったところ、すぐに応じてくれ、以下のようなコメント送ってくれた。本庄さんは1954年生まれ。公立中学校、私立中高勤務を経て、現在立命館大学と京都橘大学で非常勤講師を務める。
 《「正確なブラジル日本移民史を歴史教科書に書いてほしい」。そんなブラジル日系社会からこんな要請を受け、サンパウロ、バウルー、チエテ、アリアンサなどの移住地を訪問したのは2003年8月のことでした。移住地には戦前日本から渡伯した方もおられ、貴重な証言聞かせてもらいました。
 ブラジル取材を終え、仲間たちと共に社会科教科書会社や社会科資料集の会社に「日系人の歴史を記載してほしい」という内容の要請書を送りました。これをとりあげてくれる全国紙もあり、大きな反響がありました。同時に歴史や地理、公民など社会の授業でブラジル日本移民史を教材化しました。授業は社会科教育雑誌などに掲載されていきました。
 ブラジル日本移民史が最初に掲載されたのは、地理の資料集でした。ほどなくして地理教科書に載るようになり、公民教科書にもデカセギ問題とからめて日系人労働者が記載されました。
 ただ、残念ながら歴史教科書への記載はほとんどありません。私が執筆者となっている教科書でも年表中に載っているだけです。ブラジル日本移民史は幕末から明治、大正、昭和、そして戦後へのつながるものであり、日本近現代史のなかにどう位置付けるかについてはっきりした軸足が定められていないからかもしれません。これは今後の課題だと考えています》とのこと。

60万人分の歴史がわずか数行でお終い

 戦前だけでブラジルは約20万人、アメリカ本土は10万人、ハワイは23万人、カナダ3万5千人、ペルー3万3千人もの日本人が海を渡った。ハワイとアメリカ大陸だけで約60万人だ。それだけの日本人の歴史がわずか数行で終わっていることに愕然とする。
 また、戦後移民に関しては、今でも地理・歴史の教科書共に一切排除されているようだ。
 戦前だけで60万人の日本人が海を越えていれば、歴史的には大事件のはずだ。だが、日本人の常識の中には「海を越えたら全て日系人。彼らは日本人ではない。だから日本史に入れる必要はない」という奇妙な不文律が今でもあるようだ。日本史の範疇を出た日本人なら、世界史で扱えばいいが、それもない。
 昨今全てがグローバル化して、瞬時に情報が国境を超えて地球を飛び回るのに、日本人のアイデンティティや歴史感覚は昔のまま、島国に囚われている感じがする。今の時代、海外に住む日本人を区別するとか、日本史と世界史を分けるとか、ナンセンスではないか―と言ったら言い過ぎだろうか。(深)

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