追悼寄稿=「山村敏明さんの思い出」=レジストロ 福澤一興(かずおき)

山村敏明さん

 三月十二日に初七日を迎えた山村敏明さん(あえて「さん」と呼ばせていただく)が私に忘れられない最初の印象を残したのは、創設後間もないレジストロ日伯文化協会の役員会の席上だった。山村さんが「おいでん祭りは友好姉妹都市の中津川の名物だ、レジストロでも何か祭りを立ち上げ名物にしたら」という発言をしたときである。ずいぶん妙なことを言う男だなというのが最初の印象である。しかしながら、それが現在レジストロ寿司祭りの始まりであった。
 その後、第四代目の会長に就任して手掛けたのが現在の日本風の文協本部会館建設であり、この結果会員数が大幅に伸び、活動も活発になり今日に至っている。
 聖南西文化体育連盟会長に就任してからの活動は、連盟の組織化を図り文協間のつながりを強め、日系団体の発展と継続を目指したものとの私は理解している。リベイラ沿岸日系団体連合会も立ち上げの目的も同様である。
 これらのことを実行するのは容易なことではないと誰しも考えるだろうが、山村さんがよく口にした言葉の一つに「誰にでも好かれる人ってのは結局何もできない人で、何かをしようとすれば悪口を言われるのは当たりまえだ、気にしたってしかたないよ」。山村さんはわかっていたようである。
さて、山村さんと私のとの付き合いはかれこれ三十年近くになるが、ここ、十年ほどは聖南西の会議には常に山村さんの車に便乗して参加してきた。その会議の行き帰り、あるいは文協事務所での対話を通じて、私なりに理解したのは、山村さんは一見強引そうな印象を与えるが、常に山村さん自身は自分の目標を立て、それを実行に移し邁進することを生きがいとしてきたように思える。
 加えて積極的な行動派でもあった。目標を実行するにあたり、彼の言葉を借りれば、大事なのは「根回しを十分する」ということであり。これは単に対人関係のみならず十分な情報の収集し、準備を怠りなくしておくということであったようである。この点は実に細やかな神経を使う人であった。人と人の輪を大切にするのはもちろんであったが、例を挙げれば、常に会議開始一時間前に会場に到着し会場を見まわし、料理担当のご婦人一人ひとりに挨拶をしてねぎらいの言葉をかけてから次の行動に移るのが常であった。行き帰りの運転も慎重すぎるほどであった。
 努力家でもあった。山村さんから直接聞いたことであるが、挨拶を依頼されたら必ず下書きを書き、その下書きはすべて保存してあるとのことである、理由は少しでもうまく挨拶ができるようになるためだ、との答えであった。

 コロナ禍が起きる前の話題の一つに「どのようにして日本と日本人の本当の良さをここ生まれの人に伝えるか」が時々話題になったが、これはコロナのため中断してしまったが、今年になり一度だけ山村さんは口にした。これが次の目標であったのかは今となっては確かめようもない。
 が、一方で二月初めに私たちの仲間の一人がコロナに感染した折にその友人に「お互い八十歳過ぎたのだから、一日一日を大切に生きるよう心掛けなければ、じゃないかな。どどう思う?」と山村さんに問われたとき、私は山村さんがこういうことを口にするようになったのかと変わりように唖然とした。彼に取りこの二年の空白期間の重さが如何なるものであったのか、、、、
 三月七日午後、その山村さんの最後の仕事として建てた、レジストロ本願寺の大サロンの中央より少し奥に棺に安置された山村さんに最後のお別れをしようと棺に近づきその安らぎを感じさせる顔を見て、なぜか私はホッとし、手を合わせご冥福をお祈り申し上げた。
 翌日の朝いつものように文協に顔を出した私はサロンに入ったときに、「もう二度と山村さんがここに来ることはない」いう一抹のむなしい思いに襲われた。
 最後に故人のご冥福を心からお祈りし筆を擱く

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