特別寄稿=誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=(6)=セルタネージャの日本人先駆者「栗森兄弟」

栗森兄弟のことを紹介するモアシー・フィーリョさんのユーチューブの画像(https://www.youtube.com/watch?v=P4rrrw9Vi6A)

 日本のブラジル音楽評論草分けである横浜の大島守氏が初来伯した時、私に「ジョゼ・ラモス・チニョロンに是非とも会いたい」と言ったのには本当に驚いた。1967年のことなのである。
 日本ではボサノーヴァが好まれて広まってきたとは言え、いくら有名でも音楽家でない評論家を日本から名指しで訪問したいなんて考えつかないことだった。
 2021年に30冊近い著書を残し93歳で他界したジョゼ・ラモス・チニョロン氏は、ブラジル民俗音楽研究の第一人者で、大学卒業後の新聞記者時代にポピュラー・ミュージック評論を担当していたが、辛味ある苦言を呈するので敵を作り有名になった。
 かってトロピカリア派運動の主役カエターノ・ベローゾがマスコミ紙上で「チニョロンはブラジル音楽の敵ナンバーワンだ」と公言したが、大島さんは「ブラジル音楽の敵なんて高慢な詭弁だな。トロピカリアの敵だよ」と笑った。
 この初会見で御両人は意気投合して尊敬しあう友人となった。1990年の大島守著『ボサ・ノヴァが流れる午後』(中央アート出版)のまえがきはチニョロン氏が書いているほどである。
 さて、話はこの初会見から始まる。たまたまチニョロン氏が面白い物があるよ、と言って古い電蓄に78回転レコードをかけたのが栗森兄弟だったのである。曲は「サウダージ・ド・ジャポン」という故郷をしのぶオリジナル作品で歌詞はポルトガル語と間奏は日本語で歌っている。
 「面白い物」という意味は、単に日本人移住者がポルトガル語で録音した、というだけではない。セルタネージャ全国大会で2位入賞してコンチネンタル・レコード社が契約したのである。
 スポンサーはサンパウロの大手靴メーカー「アルパルガータ」で、近年に日本のぞうりをプラスチック製のサンダル「ハワイアーナ」と名付けて世界的成功を収めた会社である。
 セルタネージャとはブラジルのカントリー・ミュージックともいうべきジャンルだが、通常ギターやヴィオラを弾いて二重唱するので「ドゥプラ・カイピーラ(田舎者のデュエット)」とも呼ばれる。国外ではそれほどポピュラーではないが国内のレコード売り上げ番付けには数曲必ず上位を占めるのが業界の常識である。

 民謡的なのでボサノーヴァやサンバ・カンソンと違い外国人にはとっつきにくいから、言語や宗教など習慣が異なる東洋系が全国2位に入賞するのは大変な難関である。
 厳しい日伯の批評家二人が称賛したのは下記の点であった。
1.栗森兄弟は完全なサンパウロ州の田舎弁で歌い外国人なまりが無い。
2.歌詞も曲も自分たちの共作品なのに全くブラジル的な雰囲気の作風である。
3.1番の間奏に日本の子守歌の一節を日本語で歌い2番の間奏は蛍の光を日本語で入れて全体的に不自然さが全然なくスムーズに溶け込んでいるのは驚異。
4.ギターを弾きながら二部合唱をピッタリ決めている。
 栗森一家は秋田県男鹿市出身で、昭和(1933)8年もんてびでお丸で渡航した。4男の正(まさし)と5男の廣(ひろし)は日本生まれである。苦労を重ねてサンパウロ州奥地のイガラパーバ市で米屋を経営して落ち着いた。
 そして音楽好きのマサシとヒロシが仕事の合間にギターを弾いて歌い始めたのである。この兄弟コンビの評判を耳にしたセルタネージャ音楽家カピタン・フルタードが気に入り、二人をコンクールに参加させるため色々と世話を焼いてみがきをかけたのである。

筆者とジョゼ・ラモス・チニョロン氏(ブンバ誌提供)

 「ショドー&ショロンジーニョ(甘えん坊と泣き虫)」と命名されてコンクール入賞後のレコード(コンチネンタルNo.17632―1959年)の評判は良好だった。セルタネージャという雑誌他各新聞紙上で絶賛されている。
 1960年にはカリフォルニア・レコードからもSP盤2枚とカボクロというマイナー・レーベルから1枚発売された。この内4曲は兄弟共作のオリジナルである。二人は名声が上がってきても本業に身を入れて、音楽はあくまでホビーとして休日のパーティなどで演奏するだけにとどまってしまった。
 現在ヒロシさんだけが91歳でイガラパーバ市で隠居生活を送っている。
 今このレコードを改めてユーチューブで聴いてみると、日本人の感受性の豊かさと、異質文化を吸収するデリケートな器用さをつくづくと感じさせる。
 かって日本人は文化が全然違うアジア人だからブラジルに同化しない、と主張して日本移民反対を叫んだ議員さんたちに、このレコードをきかせたいものだ。

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