戦争で日本国籍奪われた2世世代=もしあれば子孫も日本が身近に(2)=知らずに出せなかった出生届

宮村秀光さん
宮村秀光さん

 1944年、サンパウロ州パラグァスー・パウリスタで熊本県出身の両親のもとに生まれた宮村秀光さん(78、サンパウロ市在住)は、日本の在外公館が引き揚げていた時代(1942―1950)に生まれた1人で、ブラジル籍しか有していない。幼少期はパラナ州で日本語を学び、エンジニアとして日系企業で勤務。現在は日本語とポルトガル語で、日本史も解説できる講師としても活躍している。
 宮村さんは「私の同世代で、日本国籍を持っているという日系2世も確かにいます。ですが、私にはありません。1951年から1952年にかけて日本政府が救済措置で出生の届け出を受け付けていたことすら知りませんでした」と話す。
 「父は日本文化をとても大切にする人でしたが、パラナ州セーラ・ドス・ドウラードス市で大規模な植民事業を行うために、1950年頃にブラジルに帰化する必要がありました。それで私の日本国籍も取れなかったのかもしれません」と続け、「無理してでも日本国籍がほしいという気持ちはありませんが、そのような道が開けるなら新たな選択肢として考えてみたいですね」と述べた。

日本移民の誰もが日本国籍を取得していれば

 ブラジルでは両親の国籍に関わらず、ブラジルで生まれた子に対してブラジル籍を与える制度が採用されている。その一方、在サンパウロ総領事館によると、日本では1984年まで、父が日本人である子に対して日本国籍を与える制度が採用されていた(1985年からは父又は母のどちらかが日本人であることが条件となった)。
 戦後の救済措置を含め、ブラジルに移民した日本移民全体が子の出生の届け出を行っていたなら、現在もっと多くの2世以降が日本国籍を有していた可能性がある。1953年以降は、このような特別な措置は適用されていない。
 例えば、現在の40~50代の日系3世の両親が、1942~51年の間に生まれた日系2世である場合、戦争に起因して、日本国籍を取得し損ねた可能性が高い。そうすると、後続的に日系3世以降も日本国籍を有せなくなる。
 日系3世の高田アンドレさん(53歳、仮称)は、サンパウロ州プレジデンテ・プルデンテ近郊で生まれ育った。2008年から10年間、日本で働き、ブラジルに帰国後、再び就労のため渡航しようとした時、パンデミックに突入した。
 高田さんは日本にいとこがいるため、パンデミック以降にビザ申請に必要となった日本在住の親戚が保証人となる必要のある「在留資格認定証明書」を取得し、ビザも申請できる。しかし、両親・兄弟・おじ・おばの関係以外の親戚では、アンドレさん以外の保証人にはなれない。アンドレさんは妻と一緒に渡航したかったが、彼女のビザを取得するには、彼が単身で先に日本へ行き、妻の保証人になるしかない。
 「私の父親に日本国籍があったら、私も日本国籍があり、ビザも必要なかったのに」とため息をもらした。(取材=大浦智子、つづく)

 

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