特別寄稿=誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=(7)=小野リサを称賛したトム・ジョビン

 私はかねてから「人生には“その気”になったから、そうなった」というケースが多いと思っている。
 日本で小野リサと言えば「ボサノーヴァの女王」であると、ブラジル音楽に無関心な人でも知っているくらい有名だ。だが、彼女の成功は中学生の頃から「自分はボサノーヴァのヒット歌手になるのだ」と“その気”になったからだ、と言っては失礼だろうか。
 高校を出てから父親の経営する四谷のブラジル・レストラン「サシ・ペレレー」でギターを弾きながら毎晩歌に励んだのである。北米の一流ジャズマンがブラジルの演奏家と共演してボサノーヴァ・スターになるのとは次元が異なるのだ。また父親敏郎氏の強い後押しも大きなバックアップとなった。
 それは彼女がまだ高校生の頃だった。小野さんから私に国際電話がかかってきて、北村英治クインテットの伴奏でリサにブラジル曲を歌わせたいのでネルソン・アイレスに編曲を頼んでくれ、という依頼だった。
 ネルソンはサンパウロ州立ジャズ・シンフォニー・オーケストラの指揮者になったマエストロであるが、若い頃、小野さんがサンパウロで経営していたクラブ・イチバンでピアノを弾いていたことがあるので、「ギャラは安いけどよろしく頼んでくれ、もう200ドル、君に振り込んだからな」と有無を言わせない依頼だった。
 米ドルの価値が非常に高かった時代とは言え、LP1枚分にはちょっと少ないなと思ったが、私は小野さんの性格をよく知っているから二つ返事で引き受けた。小野さんは元陸軍将校だったから、自分が世話をしたことがある年下の私には部下への命令調になるのはごく自然だったのである。
 マエストロ・ネルソンも小野さんと親しかったので「リサのためだからいいよ」とニヤッとして引き受けてくれた。

NHKボサノーヴァ40周年番組の際、赤坂クラブ・ケイにて筆者と(ウエルカム社提供)

 日本での録音が出来上がるとテープが早速送られてきた。ベニー・グッドマン・スタイルの北村英治クインテットのブラジル風な素晴らしい伴奏に、リサは水を得た魚のように生き生きと歌っている。ところがテープと一緒に次の命令書が入っていた。
 「君はトム・ジョビンと友人だから、お蔵になっている書き流し曲で良いからリサに提供してくれるように頼んでくれ」というのである。
 いくら何でも世界的作曲家にお蔵の作品なんて頼めないなと思っていたら間もなく電話がかかってきた。「一先ずテープを聞かせて意見を伺ってみてくれ。もうリオまでの往復航空賃は送金したよ」と言ったので私はリオへ飛んで行った。
 その頃ジョビンはテレザ夫人と別居してルア・コダジャズの邸宅から出てジャルディン・ボタニコ区のルア・ペリーというひっそりした道の借家に一人で住んでいた。
 リサのテープを聴いたトムは歌の批評には一言も触れず「この子は天才だ」とつぶやいた。その理由は「何故日本の女学生がこんなに完璧なブラジル人の発音ができるのだろうか」と首をかしげたのである。私が彼女は日系二世だと言わなかったから無理もない。ポルトガル語の発音はそれほど難しいのである。
 私がこの子向きメロディー提供の可能性を切り出すと「今は多忙なので、そのうちに考えておくよ」という回答だった。その後半年間、時々催促したが「まだ手をつけていない」の繰り返しだったので結局そのままになってしまった。

1985年リサ初のレコーディング。ポリドール・スタジオ(JAL JET STREAM PR資料)

 それから約ひと昔たってリサの名声が高くなった1994年にBMGビクター・レコードより「小野リサ・エスペランサ」というCD(BVCR667)が発売された時、私は目を見張った。なんとトム・ジョビンが歌とピアノで共演しているではないか。
 小野さんからも電話がかかってきて開口一番「坂尾君、見ろよリサに軍配が上がったろう」と嬉しそうだった。小野さんにしてみれば、あの時ジョビンが相手にしてくれなかった日本人少女の共演依頼に応じた、という気持ちだったろう。
 しかし考えてみると私が持参したテープの声の主がリサだったとはトムは夢にも思わないのだから勝負ではないわけだ。ちなみにCDのジャケットにトムが書いた賛辞を紹介しておこう。
 
「どうして一緒にレコーディングしたかって? リサの声が美しかったからさ」

パウリスタ通り裏プロマトレ産院(筆者撮影)

 私は総領事館向かい側のプレマトレ産院を見るたびに、生まれたてのリサちゃんが浮かんでくる。そして、人生の苦難に屈しない芯の強さとしなやかさがあるリサちゃんが女王の王冠を勝ち取ったのは、彼女が「その気」になったからこそだ、とつくづく思う。

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