当時、フンダソンの昼食は生徒が作っていた。材料に卵や豚肉の一切れがあればいい方だった。調理担当の生徒が失敗した時には、アフォース(脂飯)、フェィジョン(豆煮込み)、アルファッセ(サラダ菜)だけという時もあった。
文句を言う生徒は一人もおらず、みな黙々と食べて、自分で皿を洗っていた。私も初めは脂飯が全く口には合わなかった。しかし、食べるものがそれしかない。脂飯を食べるしかない。
農業実習も慣れてくると腹が減る。しだいに口に合うようになり、おかわりをすると「おい、ジャポネス、よく食うな」と言われるようにもなった。今でも、フンダソンのフェィジョンの味は忘れられない。
午後は、学科の授業である。授業はもちろん全てポルトゲス。先生が話していることが全くわからない。ましてや、農業の専門用語は理解できなかった。帰国後、私は日本で先生になったが、この時の経験から日本語の分からない日系ブラジル人生徒の気持ちがよく理解できた。
当時のフンダソンは日系8割、非日系が2割。日系のほとんどが戦後移民の二世で日本語には不自由していなかった。彼らの親は、軌道に乗った自分の事業を継がせるために子供らをフンダソンで学ばせていた。日本へ行ったこともある生徒もいた。軍隊に行っていた生徒もいた。
特に親しくしてくれた生徒は今でも覚えている。ベレンから来ていた、ネルソン・ケンジ・シマカワ。カンピーナスから来ていたマルコス・アキオ・オオタニ。マットグロッソから来ていたオズニー(非日系人)だ。
もう時効であるから述べるが、フンダソンではお菓子の持ち込みは厳禁。しかし、3人は私の誕生日に「パラベンス、アキオ」と言って、私をトイレに夜中呼び出し、1枚のビスケットを4等分して祝ってくれたことがある。3人の友情を思えば今でも胸が熱くなる。
フンダソンでの生活に慣れ始めたころ、日本の情報を手に入れようと試しに早朝、日本のラジオ聴いてみた。しかし、ほとんど雑音で、かすかにNHKの日本語放送が聴こえるくらいであった。
何とか日本の情報が得たくて、大枚をはたいて日伯毎日新聞(現ブラジル日報)を半年契約することにした。新聞は午前、サンパウロを出るバスで運ばれ夕方、サンパウロ州奥地の町で点々とおろされていく。時々、運転手がおろし忘れるので「日伯ときどき新聞」とポンペイアの一世の間では言われていた。
当時のポンペイアは一世が多く、運転手がふた抱えするぐらいの部数はあったと思う。新聞は、夕方、フンダソンの事務員が郵便局に取りに行き、私のもとに届いた。
一番に気になるのは広島東洋カープの結果である。もう一つは、日本料理店の広告である。「ラーメン、うどん、寿司、各種定食」と書いてあると穴があくほど読んだ。
毎日、アフォース、フェィジョンの生活。半年後、リベルダーディで寿司を食べた時は、大げさではなく「これで死んでもいい」と思った。(続く)