「便利」が良いとは限らない=「不便さ故の益」に目を向ける

不便なナイフだからできるドリル状に削った鉛筆(不便益システム研究所サイトより)
不便なナイフだからできるドリル状に削った鉛筆(不便益システム研究所サイトより)

 手間をかけずに思い通りに物事を進める事ができるのを「便利」と言うならば、コロナ禍は人々にかなり不便な生活を強いたといえる。
 だが、自由に出歩けないためにオンラインでの買い物方法を覚えたり、在宅勤務になったことで、家族の様子に目が届くようになったという人もおり、「不便さ故の益」もある。
 この「不便さ故の益」の事を「不便益」と呼び、それを活用するシステムデザインの研究をするグループがある事を最近知った。高齢者向けの居室設計は段差などを排したバリアフリー設計が望ましいとされてきたが、同グループのサイトには、障害物をあえて作り、生活の中に運動の機会を設ければ、身体能力の衰えを防止する事が出来るとあり、目から鱗が落ちた。
 また、不便益のわかりやすい例えとして、「富士山頂までのエレベーターが出来たら便利だが、山登りの楽しみはなくなってしまう」や、「遠足のおやつは金額が制限されていたからこそ、何をどう組み合わせるか工夫する喜びがあった」などが挙げられていた。
 困難が大きいと克服した時の喜びが大きいというのも不便益だろう。コラム子で言えば、翻訳記事を執筆する際、適当な訳語が思いつかず、グーグルの翻訳機能を使うも、提示された訳語に納得がいかない時がある。そういう時は手間はかかるが辞書を引いて相応しい訳語を探す。ぴったり当てはまる言葉を発見した時に感じる喜びは、不便だからこそ得られるものだ。
 多種の食品アレルギーを持つ友人は、それを苦にせず、自分の体質にあった食材、調理方法を探すのを楽しんでいる。
 不便で良かった事、不便だからこそできた事は多い。達成感が得られる体験や成功談の背景には、必ず「不便益」があるといったら言い過ぎだろうか。(み)

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