帰国前夜、西村さんと二人で夜遅くまで語り合うのが常だった。珠玉の時間だった。こんな偉大な人が、私ごとき日本の青年にここまでしてくださるかと涙が出る思いだった。
西村さんは、日本のことをとても心配しておられた。日本人が日の丸を焼いた事件があった時には「日の丸は、家でいえば家紋。家紋を焼くとは日本はどうなっているのか」とおっしゃっていた。ちなみにJACTOの会社のロゴマークには西村家の家紋が入っている。
西村さんには、京都の実家のこと、家族経営の難しさ、カステロ・ブランコ大統領と謁見した時のこと、フンダソンの今後、戦後の勝ち組負け組のことなどを聞いた。
西村さんは、日本人会とは一線を引いておられた。「当時、わしは、アメリカから雑誌を取っていたから、日本が負けたことはすぐわかった。後で聞いたらポンペイアでは暗殺者リストの2番目だったそうだ」と笑いとばされた。家族以外には話さないことまで語ってくださった。西村さんから学んだことは枚挙に暇がない。
西村さんは、明治生まれの人らしく「借金すること」「人の金で飲み食いすること」「人の手柄を自分の手柄にすること」を強く嫌われた。今、「恥を知らない人」は、二度と使わなかった。その反対に信頼・友情を大切にされた。
南米銀行会長の相場真一さんが亡くなった時は落ち込んでおられた。二人とも同世代。「いい人がいなくなった」とこぼしておられたのを覚えている。相場さんは西村さんを事業家として尊敬し、西村さんは相場さんをバンカーとして信頼しておられた。私のような若造の入れない二人の世界があった。
私も今年で56歳。西村さんからは「卑しくない生き方」を学んだように思う。フンダソンの卒業生800余名は今、働き盛り。ブラジルはもとより世界を舞台に活躍している。私も卒業生として、まだまだがんばります。西村さんこれからもどうかお見守りください。(終わり)