1943年7月8日、サンパウロ州サントス市では当時のブラジル警察当局により、敵性国民だった日本人とドイツ人は24時間以内の退去を強制された。その数は沖縄県人を含めた日本人だけで、約6500人に及ぶとされている。9日、ブラジル沖縄県人移民研究塾の宮城あきら代表に同行し、サントス市に住む日系2世の知念(ちねん)兄弟と元連邦下院議員の伊波興祐(いは・こうゆう)氏(82歳、2世)に当時の強制退去について本人の体験談や両親から伝え聞いた話をインタビューした。その内容を4回の連載で紹介する。(松本浩治記者)
現在、サントス市に住む知念ジルベルト・マサルさん(72歳、2世)とカルロス・マサユキさん(66歳、2世)は6人兄妹の長男と次男。兄妹は全員大学を卒業し、長男と次男、三男の3人は技師として働き、姉妹は3人とも歯科大学を卒業した経験を持つ。
祖父母の知念宇志(うし)とマツ夫妻は沖縄県南部の旧島尻郡玉城村(たまぐすくむら、現・南城市)出身で、4人の子供のうち、保(やす)さん(故人)とキヨさん(故人)の2人だけを連れ、1934年12月30日に神戸港を発った。沖縄に残された2人の弟妹は曽祖父に預けられ、ブラジルに出発する際には生き別れの辛さから、曽祖父が弟妹を森の中に連れて行って遊ばせていたという。
翌35年3月1日にサントス港に到着した知念家族は、サントス市郊外サボオ地区の農場で野菜作りや自食用の養豚を行い、家長の宇志さんが生産物を市内の市場まで馬車で運び、販売していた。
一方のマツ夫人は、生産物を盆に並べて頭に乗せて近所の家などで売り歩いた。しかし、黄色人種に対する偏見が強かった当時、マツ夫人は頭に乗せた生産物をブラジル人に落とされるなどの嫌がらせを何度も受けていたそうだ。
43年7月8日、他の日本人と同様に知念家族にも強制退去の命令が下され、宇志さんは隣に住んでいた「マルティンス」という名のポルトガル系ブラジル人に「いつ戻れるか分からないが、それまで私たちの家を守ってくれないか」と頼み、鍵を渡した。
知念一家は、わずかな荷物のみでサンパウロ州プロミッソンへと向かった。同地で慣れないコーヒー栽培に従事したが、当時すでにコーヒーの生産地はパラナ州に移行しており、苦しい生活を強いられたようだ。
第2次世界大戦後の45年、2年ぶりにサントス市に戻ることができた知念家族だったが、サボオ地区にあった元の家は畑も含めてすべて無くなっていた。精神的な負担が大きかった家長の宇志さんは、サントスに戻った直後に死去。沖縄に残してきた2人の子供たち(保さんの弟妹)に会うことなく、生涯を閉じている。
ちなみに、沖縄に残してきた2人の子供のうち、「きゅうきち」さんは54年に渡伯してサントス市で保さんの世話になりながら暮らしたが、「よし子」さんはそのまま日本で永住し、現在も沖縄で暮らしているという。(つづく)