「エリス・レジーナがやきもちを焼く唯一人のライバル」
1968年、サンパウロのサント・アマーロ放送局で仕事をしていた私のところへ、NTV人気番組「11PM」の仁科プロデューサーが取材班と突然訪れてきた。
話を聞くと、ブラジルの女性というテーマで作曲家の浜口庫之助(愛称:ハマクラ)先生がホストとして取材することになり、界隈に詳しいラジオの社長に取材方法を相談したところ、「女性のことなら何でも坂尾さんに相談しろと言われました」と真面目な顔で仰った。
また、驚いたのはハマクラさんで「なんで君がここにいるの?」と叫んだ。実は渡伯前に私が学生バンドで演奏していた頃、ハマクラさんと一緒に米軍キャンプ回りをしたことがあるからだ。
さて、今回は番組取材の話ではない。本題はここから始まる。
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当時サンパウロで有名なライブハウス「イチバン」を経営していた小野リサの父親、敏郎氏は日本向けにブラジル芸能人の売り込みに熱心だった。敏郎氏はハマクラさんに店のピアニストも勧める新人歌手のクラウジアを紹介した。
小野さんは自慢げに「エリス・レジーナがやきもちを焼く唯一人のライバルですよ」なんて宣伝したが、当時の日本人にこの意味は通じなかった。ハマクラさんも話を聞いただけでは判断せず、彼女の歌声を聴いた瞬間、惚れてしまった。「こんな歌い手はめったにいませんよ。声も表現力も良いが芸の幅の広さと何よりもホットなのが素晴らしい」とベタぼめだった。
戦後の日本におけるブラジル音楽は米国経由で始まったので、ボサノーヴァはアストラッド・ジルベルトやジョアン・ジルベルトのように歌うものであると洗脳されていたからハマクラさんが感動したのも無理はない。
あの厳しい評論家大島守氏のクラウジア評は、ただ一言「稀に見る『歌手』だよ」だったが、これは最高のほめ言葉であろう。
クラウジアは1946年リオ生まれ、ミナス州ジュイス・デ・フォーラ市で育った。女学生の時に校歌を作曲したマエストロ・エドムンド・ヴィラーニ・コルテスに認められて市内のラジオやイベントに招かれるようになった。
余談になるが、高名なマエストロ・エドムンドがサンパウロへ引っ越してきた当初、家計の足しにするためピアノトリオを編成した。私はベースを担当させてもらい、ブラジル音楽について非常に勉強になったので、エドムンド先生は私の恩師である。
クラウジアの芸能界へのデビューは、TV―RECORDの人気番組「オ・フィーノ・ダ・ボッサ」に呼ばれてからである。
番組の司会をしていたトップ歌手エリス・レジーナが番組後、自分のマネージャーだったユダヤ人マルコス・ラザロに、クラウジアへ仕事を紹介することを禁じたのは有名な話である。恋人だったロナルド・ボスコリとのいざこざが原因と伝えられているが、真相は自分よりも上手な女学生が出現したので嫉妬したからと言われている。
この件からクラウジアは、せっかくサンパウロへ出てきたのに芸能界から干されてしまっていた。そこに目を付けた小野さんは、さすがの芸能人ハンターであった。
長期滞在して日本全国を歩き回ったクラウジアの草の根交流
小野さんの努力により、クラウジアはその年に、ブラジル人女性歌手として初めて日本への長期滞在を実現した。ちなみに、小野リサちゃんは当時まだ6歳。日本在住50年のソーニャ・ローザは訪日前であった。
クラウジアはハマクラさんのおかげでNHK「世界の音楽」、NTV「11PM」、フジテレビ「ミュージック・フェア」などに出演した。
丁度、サンパウロでのレコーディングから帰国して、ブラジルづいていたジャズサックス奏者の渡辺貞夫(愛称:ナベサダ)さんもクラウジアを気に入り、数多く共演した。
そして、そのナベサダ・クアルテットのドラマーが、つのだ・ひろさんだったのも不思議な縁である。私が2012年に世界クルーズ船「飛鳥」のブラジル・サンバ・ショー演出のため、サンバ大使オズワルディーニョ・ダ・クイッカ・グループと航海した時に、ひろさんもエンターテイナーとして乗船していた。
ひろさんは「ブラジル・サウンドが懐かしくてたまらない」と話していたので、サンバ・ショーではパーカッションを担当してもらった。彼の演奏中の幸福感にあふれた表情が忘れられない。オズワルディーニョ御大も素晴らしかったとほめてくれたので、最高の日伯友好航海になった。
クラウジアが有名になった口火は何と言っても、トヨタ・カローラ第一号車のCM曲で、浜口庫之助作曲の「私のカローラ」がキング・レコードから発売されたことである。ジャケット内に彼女の全裸(見せかけ)写真が出たのも話題となった。
しかし、人気が上昇して、ギャラや仕事も増えてきた折から、彼女はストレスとホームシックのせいか、うつ病症状に陥り、急に太りだした。そして、良いオファーも全部断って帰国してしまった。
もし彼女がそのまま日本にとどまっていたら、「ブラジル音楽の女王」ではなく、「歌の女王」としての地位を得ていただろう。非常に残念である。
セルジオ・メンデスが大分前にブラジル雑誌のインタビューで、自分が日本へブラジル音楽を広めたというような発言をしていた。だが、私に言わせれば数日間のショーだけで帰っていくセルメン公演と比べて、長期滞在で日本全国を歩き回ったクラウジアの草の根交流は重みが全然違うのである。その上、彼女は世界的著名音楽家ナベサダ、ハマクラ、ミシェル・ルグラン、ヘンリー・マンシーニのお四方大御所からお墨付き評価をもらっている歌手なのだ。
思い出してみると、日本でいち早くブラジル音楽LPをレコーディングした歌手のケイ石田(赤坂ボサノバ・クラブのママさん)をはじめ、東京のブラジル音楽ライブハウス古参のコルコバードのママ、上村カッちゃん、それから米国でボッサ・オルガン第一人者ワルター・ワンダレイのショーで歌った白系露人マリーナ・ピスクノーヴァ(日本で最初のブラジル曲ピアノ弾き語り)など、ボサノーヴァ歌手志望の女性に影響を与えたベテラン女史たちは皆「クラウジアのように歌えたらいいな」と思って歌い始めたのである。
トヨタさん、来年度キャンペーンとして一つ提案あり。
55歳のカローラは益々モダンで、ハマクラさんのメロディーは衣替えすればまだ若々しく、クラウジアの声は未だに美しい。そこで、水着姿の彼女に新盤「私のカローラ」を歌わせたら如何?
(註)脱がせるのは私の十八番である。