第一章 祖国・青春期 出生と幼児期
一九三四年(昭和九年)十月二十九日、私はこの世に生を受けた。父、黒木弥吉、母、ぬいの八人の子供の五番目、次男である。所は九州のほぼ中央の東の端、宮崎県北部の海沿いの村落。今の日向市大字日知屋畑浦の五七七七番地である。当時は富島町大字日知屋畑浦と言っていた。畑浦も前畑浦とうしろ畑浦とあって、前畑浦は細島の港に面してもっと開けていたが、うしろ畑浦は牧山の北側にあって、大きな湾に囲まれてはいたけれど、湾口はまだ、当時は広くて、湾内にも波のうねりが打ち寄せていた。
私の生まれた家の近くは当時、すでに干拓事業が施されていて、私の家の百㍍先から約二㌔の堤防が対岸の亀崎に向けて伸びていた。そのまた昔の牧山、つまり畑浦地区は一つの島であったと私は想像しているが、干拓事業に依って陸続きになったものだろう。私が生まれた当時は干拓地はもう、かなり雑草が広く生えていて、私が物心つくころに、一時、塩田になっていたのを記憶している。
その様な所で私の家の五十㍍先は波打ち際になっていて、家と波打ち際との間にはイソクロの木が植わっていた。普段は静かな海べりの村落であったけど、一旦、台風に見舞われると高波が我が家の庭を洗うことも再々あった。私の生まれた家は麦わらぶきの木造家屋であった。祖父、菊次郎の代に建てたものと想像するので大正の初め一九一〇年頃と思う。私が生まれた時の記憶に祖父、菊次郎はいない。私が生まれてやがて亡くなったそうだ。
私が生まれて初めての記憶はさざ波の打つ我家の下の砂浜を弟、三美を腕に抱いて散歩する父のそばを私がついて歩く、そんな光景が今でもなつかしく思い出される。多分、弟、三美が一才前位で私が四才位だったのだろうか。それともう一つの記憶は私が病気で寝ていた。これも四才か五才位の時と思う。
私の寝ているそばを姉達がはしゃいで遊んでいた。何かのひょうしで枕元にあった箪笥が寝ている私の頭に倒れかかった。母が大きな声でわめいた。たんすの角が私の頭の右方に当たり、大きく皮膚をえぐって大出血を起こし、母はその時私はもうだめかと思ったそうである。
でも奇跡的に助かり、その傷跡が今でも〈ハゲ〉として残っている。次姉の信代姉はその時の失敗を心から感じていると聞く。私もその時の情景をかすかに想い出すことができる。