中風のつねばあさんはいざり歩きしか出来ず、左腕は曲がっていて、右手で何とか食事は出来る位不自由な体であった。つねばあさんと菊次郎じいさんは昔から、二人共お酒が好きで、夏の日など、家の庭に何人も座れる位、大きなバンコを出して、その上に飯台を置き、この老夫婦が向かい合って夕食前に酒を汲み交わしているうちに、いつの間にか言い争いになるのが常であったそうだ。
そんな時でも祖母、つねは自分のしたい気侭さ故か亡くなる前、十一年間、中風に苦しんだ、いや、それ以上に母、ぬいの看病は大変だった。畑仕事、金の工面、子供達の世話、体はくたくたに疲れ果てて床についても「おぬいよー」とつねばあさんに呼ばれる。行ってみれば床一面に大便をぬりつけて、うんうんと呻いている。「どうしてもっと早くうんこが出る前に呼んでくれないの」と母ぬいはこぼしながらもぬぐい片付けを済ます。
いつもいつも壁越しにこの様な情景や声を聞きながら、私の少年時代は過ぎて行く。
貧苦と中学生活
戦争が終わって、学校制度も高等科がなくなり、国民学校が小学校と変わり、六年を終えると三年間の中学校に入り、これが義務教育となった。当時はまだ、旧制の中学があったので、新制中学と呼んで区別していた。ちょうど私が中学に入る年から、旧制はなくなり、皆、新制の中学に学ぶ様になった。校舎も富高の中心部から塩見川のほとりにある日知屋に移った。ここで私は三年間の中学生活を過ごしたわけである。
その頃、熊本で生活していた父、弥吉の妹、ふさえの家族が都合にて宮崎の私達の家族と一緒に住むことになり、あばら屋の我が家の一部に同居する様になった。父親を亡くしたこの家族は、ふさえとその子供たち四人、全部で五人家族であった。長男、亮一は私と同じ年。生まれは一年近く兄さんであり、体格も父親似で大きかった。非常に活発な性格で学校でも皆のリーダー格であった。スポーツも野球ではレギュラーのキャッチャーだった。走り方は遅いが打撃は強かった。時には私の領域にまで入って来る事もあり、喧嘩になることもあった。私はいつもの様に背が低くて、おとなしい生徒であった。
当時の我が家はまだ、他の家族と比較してもすごく貧乏だった。学校に持っていく弁当は唐いもが九十五%の別名、唐いものコッパ飯と呼んでいた。他の同級生はほとんど麦飯が多かった。私は恥ずかしい気持ちが強く、弁当を手で隠して食べたものであった。この頃の中学はそのほとんどが男女共学であった。年令的には十三才から十五才でその成長に急に差の出る年代である。早熟な子と晩生な子とではかなりの差である。一般に女の子の方が早熟である。