《特別寄稿》一冊の本との出会い=サンパウロ市 森田幸子

※森田さんの郷土で発行されている町民文芸誌「たかの風』に特別寄稿として掲載された文章

清兄さんと神戸港出航前に写す。1962年2月2日(提供写真)

 日本の実家では、何十年も前から農家向けの本『家の光』を購読していた。その時に見た一ページ、「この青年たちに花嫁を!」こんな見出しのページを目にした乙女の心は高鳴った。(原始林を耕し、ランプ生活にダンボールで囲われた風呂、淋しい夜は故郷を偲び…)。
 「私はこの青年に嫁いでゆく」。十五歳の少女だった。
 十六歳になった時オートバイの免許を取りに行った。あの当時、 お金持ちのボッチャンしか乗っていなかった。私の兄がスズキ一二〇CCを持っていた。私は夜に練習し、オートバイの免許試験を他の郡に受けに行った。百名ぐらいの男性の中に女性は私一人。男性たちがあざ笑う中、試験を受けた。受かった、合格した。もう六十二年前の出来事である。
 真っ赤なコートに白いスカーフをマチコ巻きに巻いた少女がオートバイで走る姿は、村でも有名になった。
 また、青年弁論大会に出場し、私が当時志していた「ブラジル行き…、第二の故郷」と題したブラジル花嫁の夢を壇上で弁論した。そこで私は自分の夢を唱えたかった。結果は、二十人中十九番目だった。
 十七歳の春、神戸の県庁外務課に出向いた。そして「ブラジルに行きたいのですが」とお願いした。外務課の方は私の目をしっかり見て、目を大きく開き、早速ブラジルに出航した青年のアルバムを開いて見せてくれた。何々高校卒、何々大学卒、身長、体重とびっしり、二〜三センチの写真が貼ってあった。
 私は、誰でも良いブラジルに行けるなら…。目を閉じ、「神様の言う通りにします」と、指で押した青年を生涯の夫と決めた。その時に森田満男さんと縁を結んだのです。
 私は手紙と写真を何回も送った。しかし返事はなかった。六回目を送った時に返事が来た。
 「蝶よ、花よと育った貴女には、ブラジルのランプ生活には無理でしょうから、日本で幸せな結婚をして下さい」と一通の手紙、断り状の三行だけの手紙しか来ませんでした。文通結婚? いやいや、たった一度、この断り状しか来なかった。

亡き夫、満男さん。27歳の時の写真(提供写真)

 走り出したら止まらない若さ。私は彼の実家の住所を片手に、オートバイに乗って山奥の宍粟郡に出向いた。誰にも言わずに、兄のオートバイに乗って朝の八時に我が家を出て彼の田舎に着いたのは十二時だった。お母さんが喜ばれ、お父さんが帰ってくるまで待ってくださいと私を帰らせなかった。お父さんは養父郡の明延鉱山で働いておられ、仕方なく泊まることにした。お父さんは夜帰ってこられて、大変喜んで下さって、まるで嫁とお父さんの縁に晩酌を交わしながらの一夜となった。
 翌日、明延の叔母さんにぜひ会ってほしいとの事でもう一日泊まることになった。皆さん私に好意を持って下さり、すっかり森田家の嫁になってしまった。それは十七歳の春だった。
 三日目、私は我が家に昼十二時に帰ってきた。我が家では三日間もオートバイで出かけたまま帰らない私を心配して、夜まで帰らなかったら警察に届けるところだった。
 兄から大変叱られ、その後何か月もオートバイを貸してもらえなかった。
 まだ私は十七歳、未成年。ある日、私は父の印鑑を勝手に持ち出し、宍粟郡の役場に行って結婚届を出してきた。それを聞いた我が家(市位家)は叔父さんも交えて親族会議が開かれ、みんな大反対。そして父が病気になり、母が言った。「幸子がブラジルに行かないと決めたらお父さんも元気になる。役場に行って離婚届を出してきなさい」。
 私はまた、遠い宍粟郡の役場に離婚届を出しに行った。それから父も安心して元気になっていった。そして、十八歳の誕生日が過ぎた春、私は一人でブラジル行きの準備を始めた。私は一度でも文を送った人を裏切ることは出来なかったのだ。
 母は「どこの馬の骨か死罪者か判らない人に嫁がせない」と言い切った。父は黙っていた。だから内緒で結婚届を出さなければと。お金を貯める……。私の叔父•市位一朗が丁度、隣町に近畿織物株式会社を設立した。あの当時、播州織物は一番景気の良い時であったかと思う。私は寄宿して、四国からも九州からも沖縄からも来ている女工さんたちと一緒に働いた。社長さんの親戚の娘ということで別扱いされた。あの当時、本当によく働いた。七十台の自動織機を一人で受け持ち、動かしていた。その時はブラジルに行くという希望一点ばりで、何も怖いものはなかった。
 毎週土曜日、午後十一時まで働いた後、自転車で一人、杉坂峠を越えて帰った。この峠道は加美と八千代の境で、五Kmほどは一軒の家もなかった。あるのは大きな池が二つと、くねくね曲がった長い坂道だけだった。この峠道は夜十二時過ぎたら幽霊が出るというウワサで、誰一人、通る人はいなかった。それでも私は、ブラジルに行くんだ、幽霊が出るなら出てみろ、肝試しだと心に命じ、真夜中、峠道を帰ってきた。周りのみんなは「肝っ玉の強い幸ちゃん」と呼んだ。
 その後、忘れかけていた時、昭和三十七年二月二日に神戸港を出航する旨の通知を受け取った。私はあわてて会社を辞めた。父は嫁入り道具としてミシン、編み機など買ってくれた。母はたくさんの着物を作ってくれた。それでも私は柳行李四つと、父が買ってくれた真新しいミシン、これが私の嫁入り道具。私の姉たちは大きなタンス一杯の嫁入り道具、両親はさぞかし淋しかったと思う。昭和三十七年二月二日、多くの方々に見送られ、五色のテープを持って出港した。私を見送ってくれた県庁外務課の斉藤さんが「笑顔で出航された幸子さん」と、後日お便りを頂いた。

 とにかく淋しいも悲しいも何もない、大きな夢と希望だけだった。サントス丸船中の赤道祭りには、私は十三人の子連れの夫に扮し、妻役には大きなお腹を抱えたコンドウさんとで「移民大家族」に出演、大喝采だった。
 そしてあの時の花嫁は、今では八人の子だくさん。あの時の出演が因を積んだのかも知れない。貧乏だったけど楽しい毎日だった。他の方から、苦労されたんですネと言われるが、私は一度も苦労したとは思わない。これが、一冊の本との縁でブラジル行きを望んだ当時十五歳の乙女の、現在の心境である。
 今、晩年を迎え、「遠き昭和の …」五木ひろしの歌を聞きながら浦島太郎さながら遠い昔を思い出している。
 目をつぶれば、あの故郷の笠形山を仰いで、十五歳の乙女が目にした一冊の本との出会いが縁となり、自分の人生を決めた。そして「第二の故郷」と題した私の弁論が叶った。遠い昭和の思い出である。

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