《特別寄稿》極限の恐怖の中で生きる人々=『ひまわり』と『夜と霧』から=「誰かが自分を待っている」との想い=サンパウロ市ビラ・カロン在住 毛利律子

 私は戦後生まれ世代なので、戦争を体験していないため、それがどれほど恐ろしいものであるかを知らない。
 しかし、ここ数カ月続くロシアによるウクライナ侵略戦争から、改めて戦争の恐怖と不安を強く感じている。何よりも恐ろしいのは、思い付きで戦争を仕掛け、国際秩序、人道も蹂躙して、相手を壊滅させるまで爆撃を止めない人間・国があるということ。
 ある日突然、容赦ない攻撃を受けた人々の日常生活は吹っ飛び、爆撃の混乱の中で実際に起きている略奪、人身売買、性的暴行によって、人々は極限の恐怖にさらされ、魂が壊されていく。
 それでも人は立ち上がる。それを教えてくれるのが、ウクライナを舞台にした映画『ひまわり』とユダヤ人大虐殺ホロコーストを生き延びたユダヤ人心理学者ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』である。「生きること」の意味、意義とは何かを考え直してみたい。

50年前にウクライナで撮影された戦争映画『ひまわり』

映画『ひまわり』の中のソフィア・ローレン(Unknown photographer, Public domain, via Wikimedia Commons)

 ウクライナ戦争によって、今、日本などで再上映されているのがイタリア映画、巨匠ヴィットリオ・デ・シーカによる「ひまわり」である。この映画では、冒頭のフランクルの言葉、「新たな人生が自分を待っている」の通り、主人公が新しい道を歩み始めるところで終わる。
 1970年、ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニが競演し、地平線の見渡す限りに広がったひまわり畑の忘れられぬ映像と、ヘンリー・マンシーニの甘く切ないテーマ曲が最も印象的で、聞くたびに瞼が熱くなる映画の一つである。
 ストーリーは、夫を戦地へ向かわせたくない妻は、彼を精神病院へ入院させる。しかし、それが偽りであったことが発覚し、夫は最も過酷な厳冬の地、ソビエトの東部戦線に送られ、消息を絶った。
 やがて戦争が終わり、夫の行方を一人で探しに出た妻は、毎日のように駅でひたすら彼の帰りを待ち続け、その死を諦めきれず、ひとりソ連の地へ向かった。
 かつて戦場となった街で、妻は夫の消息を尋ねてまわり、ある日、記憶喪失になった夫がロシア人女性と結婚し、娘も一人いることが分かった。二人は再会するが、結局、互いが新しい人生に向かって生きる決心をして別れる。
 「ひまわりの花」はウクライナの国花でもあり、いまロシアの軍事侵攻に対する抵抗の象徴にもなっている。映画のハイライト、地平線まで広がるひまわり畑は、その地下に眠る無数の兵士や市民たちの墓地であり、撮影が行われた場所こそ、現在のウクライナなのである。
 50年前、東西冷戦当時にヨーロッパの国が、ソ連で西側諸国の映画が撮影したことは珍しく、あの広大なひまわり畑はウクライナの首都キーフ(キエフ)から南へ500キロほど行ったへルソン州で撮影されたとされているが、今、NHKの現地取材ではポルタヴァ州のチェルニチー・ヤール村で行われたと特定された。

NHKの現地取材で分かったこと

 去る5月11日のNHK鹿児島局かごしまWEB特集での、去年7月までモスクワ支局に駐在していた茶園昌宏ディレクターによる、名作映画「ひまわり」に隠された「国家のうそ」の解説を引用して紹介したい(鹿児島局、https://www.nhk.or.jp/kagoshima/lreport/article/000/08/

映画は、ソ連にとって不都合な真実

NHK鹿児島局かごしまWEB特集のページ

 茶園ディレクターが取材を進めると、自国にとって不都合な歴史を覆い隠そうとした当時のソビエト指導部の思惑が見えてきた。
 《第2次世界大戦当時、ソビエトで捕虜になったイタリアの将兵のうち4分の3が飢えと病で犠牲になったが、戦後ソビエトの指導者たちは、この事実を認めることはなかった。
 祖国に戻らぬ兵士の行方を質すイタリアからの問い合わせに回答することなく、イタリア人捕虜の墓地も破壊された。映画では、ヒロインがひまわり畑の墓地をさまようシーンがあるが、これについて、映画の公開直前にこのシーンの存在を知ったソビエト側は、完成したフィルムからこの部分をカットするよう要求した。つまり、ソビエト指導部は、歴史をねじ曲げ、捕虜の犠牲など存在しないと主張したわけである》
 さらに、《東部戦線で実際にイタリアが派兵したのは、映画が撮影されたポルタワ州から現在のロシアにかかるエリアです。犠牲者が埋葬されているとすればこのあたりになるはずです。しかし、撮影場所が明らかになって遺族などが現地を訪れ、遺骨の返還などを求められると、ソビエトにとって非常に都合が悪いわけです。そこであえて、イタリア兵の主戦場ではなかった南部ヘルソン州を撮影場所に仕立て上げたとも考えられます。結局、映画『ひまわり』は、ソビエト国内で上映されることすらありませんでした。撮影現場となったチェルニチー・ヤール村の人々も、ソビエト崩壊までこの映画を見たことはなかったそうです。
 まさに、そのソビエトの情報機関であるKGB出身の権力者が、歴史をねじ曲げて始めたのが、今回のウクライナ侵攻です。
 プーチン大統領は去年7月「ウクライナという国民国家は存在しない」という趣旨の論文を公表していますが、ウクライナの人々は9世紀に首都キーウに国が形作られて以来、独自の言語や文化などを守ってきました。
 戦争というのは、国家が、あるいは独裁者が、自分に都合よく歴史を解釈したり書き換えたりしたときに始まるということを、われわれは学んできたはずです。ロシアの教育現場では、ソビエトあるいはロシアは絶対的な善だという神話がすり込まれ、戦後のシベリア抑留や近隣諸国への軍事侵攻などについては、ロシア国民の多くが「相手の国が悪かったのだ」と考えています。私は、映画『ひまわり』にまつわる謎も、今回のウクライナへの侵攻も、根は同じ問題なのではないかと見ています》(茶園昌宏談)

自分の人生は何だったのかと嘆くのではなく、生きてさえいれば、人生が自分を待ってくれている

『夜と霧』を書いたユダヤ人心理学者ヴィクトール・フランクル(Prof. Dr. Franz Vesely, via Wikimedia Commons)

 人間は、想像を絶する極限の状態の中にあっても、最善の生き方・考え方をすることができると教えてくれるのが、ユダヤ人心理学者ヴィクトール・フランクル(1905―1997年・92歳)である。ヒトラー政権によるユダヤ人大虐殺ホロコーストでアウシュヴィッツ収容所に送られたフランクルの著書『夜と霧』には、絶望的な状況下で「生きる意味とその答え」が示されている。
 フランクルは、アドラー、フロイト、ユングに次ぐ第4の心理学の巨頭と言われ、脳外科医としても一級であった。
 1941年に結婚したが、その9カ月後に家族と共に強制収容所のテレージエンシュタットに収容され、父はここで死亡し、母と妻は別の収容所に移されて死亡した。
 ナチス強制収容所での体験を元に著したこの『夜と霧』は1946年に出版され、原文のタイトルは邦訳すると、『それでも人生に然りと言う=ある心理学者、強制収容所を体験する』である。日本語を含め17カ国語に翻訳され、読み継がれ、常に「私の人生に最も影響を与えた本」の上位にある。
 フランクルの思想は、「ロゴセラピー」といわれ、それは、「人間の主要な関心事は快楽を探すことでも苦痛を軽減することでもなく、人生の意味を見出すこと」であるとする。
 「ロゴ」とは、ギリシア語で「意味」である。ロゴセラピーとは、人にその生活状況の中で「生きる意味」を見つけ、充実した生き方を援助しようとするものである。フランクルのロゴセラピーは収容所体験を基に考え出されたものではなく、収容される時点ですでにその理論はほぼ完成されており、はからずも収容所体験が理論の正当性を検証することとなった。

「夜と霧」とはユダヤ人狩り作戦の比喩

 90年前、ドイツでヒトラー率いるナチスが台頭した。ヒトラーの指揮の下に優勢民族アーリア人の純血を守りドイツ国家統一ため、劣等民族ユダヤ人をドイツの市民生活から強制排除、すなわちユダヤ民族の絶滅計画が策定され、実施された。それを「ホロコースト(焼かれた生贄)」という。
 1933年から1945年にかけて、ナチスドイツは約2万か所の収容所を開設し、ユダヤ人大虐殺を実行した。ユダヤ人というだけで、老若男女、幼い子供の600万人が殺されたといわれる。タイトルの「夜と霧」とは、「夜の闇の中で捕らえられ、霧に紛れてひっそりと消えていく」というナチスの戦略を比喩している。
 フランクルは1944年10月にアウシュビッツに送られたが、3日後にテュルクハイムに移送された。彼の番号は「119404」。「夜と霧」の表紙には、この番号が記されている。
 捕まって乗せられた貨物列車の狭い車両には人が息もできないほどぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。当然行く先などは告げられない。
 ナチの強制収容所にはユダヤ人だけでなく、ジプシー(ロマ)、同性愛者、社会主義者といったさまざまな人びとが入れられていたが、90%はユダヤ人であった。
 収容所に到着すると、すぐに労働者として使えるかどうかの篩いにかける。「要・不要の指さし選別」である。使えないと判断されたものは即刻、ガス室に送り込まれる。要ると判断されたものは、全身の毛を刷られ、裸にされる。まっすぐ立てないものは即座にガス室に送られるので、囚人は飢餓状態の体をまっすぐ保つことだけに集中する。
 被収容者はショックの第一段階から、第二段階である感動の消滅段階へと移行した。内面がじわじわと死んでいったのだ。感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心。これら、被収容者の心理的反応の第二段階の特徴は、ほどなく毎日毎時殴られることにたいしても、なにも感じなくなる。この不感・無感は、被収容者の心をとっさに囲う盾なのだ。(「夜と霧」より)
 つまり、生命を維持する目的のためだけに集中する状態になる。心の機能(喜怒哀楽)はシャットダウンされ、食べて寝るだけの原始的な状態に入るというのである。
 「いつまでという期日がない」ことは苦しみの最たるものだった。それは、絶えず期待と幻滅の無限のループに陥る拷問と同じで、死んだ状態で生きのびているのである。
 自分の未来をもはや信じることができなくなった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。(「夜と霧」より)

生きる意味についての問いを百八十度方向転換すること

 ある日、フランクルは妻の夢を見た。その時妻はすでに毒殺されていたのだが、そのことは当然知らされていなかった。夢で見た妻のまなざし、交わした言葉、彼女の面影は、フランクルに生きる希望を与えた。
 人は、この世に、もはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、フランクルは痛感した。この体験から生きる意味についての問いを百八十度方向転換することを考えた。
 「人生」が私に向かって期待している。人生が自分を待っている。だれかが自分が待っていると、つねに思い出させることが重要である。
 およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。人生の意味を見出した人間は、苦しみにも耐えることができるのである。」(「夜と霧」より)
 フランクルは1945年4月にアメリカ軍により解放された。その後1946年にウィーンの神経科病院に呼ばれ、1971年まで勤務した。1947年にエレオノール・キャサリン・シュヴィンと再婚している。二人は仲睦まじい夫婦であっただけでなく、彼女はフランクルの学問的な協力者でもあった。その辺の事情は、『それでも人生にイエスと言う』に詳しい。
 極限的な体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄で90余歳の人生を見事に生きた。聖人マリア・テレーザは彼をノーベル文学賞候補に推薦した。学会出席関連などでたびたび日本にも訪れていた。
 ある人は、30数年前にウィーン在住のフランクルに手紙を出したところ、2週間もしないうちに返事が届いた。5行ほどの文章だったが、最後にカタカナで「フランクル」と認められていた。その人は、フランクルの人柄の優しさにものすごく感動したという。
 フランクルは、想像を絶する強制収容所から生還し、まさに、「生きる意味」を証明した人であり、思いがけない困難、戦禍にあっても、「人生」が自分に期待する意義を忘れてはいけないこと、それが自分の生きる支えになるということを教えてくれているのである。
※参考文献『夜と霧』霜山徳爾・訳、みすず書房、1985年

最新記事