「いつか金を儲けてブラジルでもいってみせる」
先日、読者から「宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を新聞に掲載してくれないか。この間、NHKの番組でこの詩を朗唱するとボケ防止に良いとやっていたから」との電話があった。
宮沢賢治は1896年8月生まれ、1933年に37歳の若さで没した。岩手県花巻市の富裕な質屋を稼業とする家に生まれ、「周囲の貧乏人から絞りとった金銭によって恵まれた生活をしてきたのではないか」という思いにさいなまれてきた。
そんな周囲に対する気遣いと仏教への信仰に駆られるままに、貧しい農村の生活を改善することに役に立ちたいという情熱を持ち続けると同時に、その篤い思いを作品に込めた。
今でこそ宮沢賢治と言えば、日本人なら誰でも知っている詩人・童話作家だが、生前にはほぼ無名だった。死後に友人の草野心平らの尽力によって作品が広く知られるようになり、ようやく国民的作家となった。
著作権を調べていたら、フリーになっていて青空文庫に置いてあった。ブラジルつながりがないかとググっていたら、意外な発見をした。
賢治著《或る農学生の日誌》(https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45471_36075.html)の一節に、次のような文章があったのだ。
《五月十一日 日曜 曇
午前は母や祖母といっしょに田打ちをした。午后はうちのひば垣をはさんだ。何だか修学旅行の話が出てから家中へんになってしまった。僕はもう行かなくてもいい。行かなくてもいいから学校ではあと授業の時間に行く人を調べたり旅行の話をしたりしなければいいのだ。
北海道なんか何だ。ぼくは今に働らいて自分で金をもうけてどこへでも行くんだ。ブラジルへでも行ってみせる》
この日記は1925年5月11日の日付だから、賢治が岩手県立花巻農学校の教諭をしていた28歳の時のものだ。北海道に修学旅行に行く計画を、費用が工面できないと参加を諦め、「いつか金を儲けて、北海道どころかブラジルでもいってみせる」と強がりを言っている様だ。
つまり、賢治の頭の中にはブラジル行きの発想もあった。
『雨ニモマケズ』は生前に発表された詩ではなく、亡くなった後に遺品の黒い手帳から発見された。鉛筆でメモ書きのように記されていた。その頁には1931年11月3日の書き込みがある。
賢治はすでに病に伏している状態で、死を覚悟して遺書まで記していた時期だった。生前ほぼ無名だった賢治にとって、自分の心の戒めのように書いた文章が、死後に世に発表されて代表作になるとは、ゆめゆめ思わなかったに違いない。
賢治の持つ農民芸術による農村復興という考え方、国境を超えた博愛思考などは、ブラジル日系社会がたどってきた過去とどこか重なるものがある。もしも彼が健康でブラジルに移住していたら、どんな作品を残していただろうか。
弓場勇に通じる農民芸術論
賢治は1926年3月に花巻農学校を依願退職し、4月に私塾「羅須地人協会」を設立した。村の人々を集めたレコードの鑑賞会や、子ども向けの童話の朗読会も始め、田畑で農作業にいそしむ傍ら「農民講座」を始めた。これは植物や土壌などの農業関連の科学的知識を教えるもので、それと共に自らが唱える「農民芸術」の講義も行われた。
この講義の題材として執筆されたのが「農民芸術概論綱要」だ。同時にレコードコンサートや音楽楽団の練習を始めていた。
この「農民芸術概論綱要」の一節「農民芸術の製作」には、次のような文章もある。
《髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ/なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ/風とゆききし 雲からエネルギーをとれ》
当時のコーヒーは文化人の飲み物だった。第1回移民船「笠戸丸」を運航させた水野龍は、明治後期から大正、昭和初期にかけてコーヒー文化を日本に植え付けたという重要な文化的な役割も果たしていた。
彼が社長となって1910年2月に日本に創業した「カフェーパウリスタ」は東京、大阪、横浜、名古屋、福岡、仙台から上海まで30数店舗も展開するチェーン店網だった。賢治も東京に出たおり銀座のカフェーパウリスタでコーヒーを飲み、文化を論じたことがあったのだろう。
だが、当時の右傾化する日本からすれば、社会主義教育と疑われ、花巻警察の聴取を受けることになり、その後、羅須地人協会の集会は不定期になり、オーケストラも一時解散してしまった。
ブラジルでは1935年に弓場勇らが中心になって、アリアンサ移住地内に弓場農場が設立された。「耕し、祈り、芸術する」共同農場であり、昼間は農作業をする傍ら、夜はクラシック音楽の演奏や鑑賞、バレエの練習や公演等を現在まで続ける。賢治が目指した羅須地人協会にどこか似ている気がする。
もしも賢治が健康で、ブラジル移住していたら弓場農場の創立に参加していたかもしれないと思うと興味深い。
あちこちにいた農民詩人
賢治が教鞭を執っていた花巻の農学校を訪ねたこともあるブラジル岩手県人会の千田曠曉元会長(81、金ケ崎市)に、「もしや賢治の親戚とか、知人、縁者がブラジルに移住したという話はありませんか?」と尋ねると、「残念ながら聞いたことはありません」とのことだった。
千田さんは、「賢治が生きていた頃は飢饉や恐慌が東北をよく襲っていたので、ブラジル移民が多かった。きっと身近にブラジル移民もいて、人生の選択肢にはあったかもしれませんね。もしもブラジルに来ていたら、コチア産業組合の農業技師や指導者をしながら、自分の作品を書くという生き方をしていたかもしれませんね」と想像を膨らませた。
賢治は1929年の世界恐慌、1930年から31年の昭和農業恐慌を体験しており、まさにその最中に書かれたのが『雨ニモマケズ』だった。
ウィキペディア「昭和農業恐慌」項には《翌1931年(昭和6年)には一転して東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢饉水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となった》と書かれている。
ブラジル移住が最も多かったのも、まさにこの時期だ。1932年に1万1678人、33年に2万4484人、34年に2万1230人がピークだった。
事実、この時代に来た移民が、戦後のブラジルのコロニア文学を支えた。サンパウロ市近郊のスザノ市を始め、農民詩人があちこちにおり、心の叫びを書き残している。
コロニアの日常を読み込んだ作品
たとえば詩集『花粉』(鳥井稔夫、古野菊生、古田土光良、1951年、東京都・泰文館)には次の詩がある。PDF版(18頁、https://www.brasilnippou.com/iminbunko/Obras/102.pdf)
■徳さん■(鳥井稔夫)
お徳さん もう一度唱って聞かせて下さい
あなたの喉は あの民謡をとても美しく聞せます
でも、もう無理とは知ってゐます。ーー
掘立小屋の棲家は
軒端から畠に続いてーー家の中まで仕事が続いて
それでも小さい窓があって
空が故郷の空に似る秋に
そこからのぞいて 時たま口ずさんでも聞えやしません。
収穫の袋と 子供の数とーーもう計量は止めにしてゐて
日曜日のお洗濯の忙しい手を一寸休めては
一度は土地持ちであった亭主に
やめさせてゐたピンガを〝気付け″に進めました。
移民船が新婚の旅であったことから
帰る日があることを幼児に聞せましたが
このポエムの末節にする〝繰返し〟は
お徳さんの胸底へ落ちる礫であったり
時計の刻みであつたりーーきちんと溜息が出ます。
大人になった学校がへりの惣領子(最初に生まれた子)は
お徳さんの言葉を もう外国語だと言って笑ったとき
涙のない涙を その荒れ果てた男のやうな掌で啜りました。
朝から晩まで 家の内から外にまで 一番の稼手で
もう歌を唱ふ日もないやうですが
もう一度 あの山峡の盆地に産れた恋うたを
自慢の喉で 聞せて下さい。
お徳さん
お徳さん
お徳さん
あなたに似た人ばかり
蟻のやうに続いて力強いすがたですが
みんな歌はないではありませんか。
合同詩集『叢』(コロニア文学会、1972年)には次の作品も。PDF版(6頁、https://www.brasilnippou.com/iminbunko/Obras/104.pdf)
■移民の歌■(江尻潤)
移民の歌
夢のブラジル
常夏のブラジル
情熱のブラジル
移民の屑籠のブラジル
祖国を捨てた
放浪の民は
どこにも見つけなかったその幸福を
一掴みにできそうだと
空頼みしながら渡って来たのだが
烈しい太陽と
篠つく雨と雑草とカマラーダ(使用人)に
結局何も彼も吸い取られ
裸一貫になった時
おお
現実の楽土lブラジルが
俺の両脚の下に
しっかと、踏みつけられていたのだよ
生涯日本から出ることがなかった賢治は、郷里の岩手県をモチーフとして「イーハトーヴ」という理想郷を想像の中で作り上げた。きっと異国願望「日本でないどこか」への執着は強かったはずだ。もしもブラジルに来ていたら、住んでいる場所がそのまま異国になった。
『叢』の前書きで編集を担当した農民詩人・横田恭平は《「移民文学」という〝国籍不明〟とも、あるいは〝未来形の文学〟とも言える特殊な性格の文学、そういう〝文学〟は、今では、ブラジルだけにしかないと思われる》と位置づける。
ブラジルにおける日本移民の想いや苦悩を刻んだ日系文学は、どちらの国の文学にも属さない無国籍文学だ。そしてグローバル化が進む現代においては、いずれどの国も直面する外国人と共生する生活を描くという意味では「未来を描いた」文学でもある。
自分が家庭内で使う言葉が子ども達にとっては「外国語」になるという悲しい現実に直面し、故郷の恋歌をいくら上手に歌っても分かってくれる人もいなくなり、日本という故郷を捨てざるをえない心境まで追い込まれた時、初めて足元には「第2の故郷」があることに気付く。そんな切ない心情が行間から漂う。
移民小説を読みたい人には『コロニア小説撰集1』(1975年 コロニア文学会、https://www.brasilnippou.com/iminbunko/Obras/85.pdf)がある。当時の移民生活の日常から析出された珠玉の物語が日本語で読める。
この移民資料160点が無料で読めるPDF版「ブラジル移民文庫」(https://www.brasilnippou.com/iminbunko/)を作った醍醐麻沙夫さんのお薦めは「牛糞」「野生」。ぜひご一読を。
そんな移民の日常を、賢治ならどんな作品に昇華させただろうか。(深)
〔雨ニモマケズ〕
宮沢賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ䕃ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ