連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第11話

 私の高校時代は農科と商業科と合わせて四十人位だったと思うけど、その科の違いを越えて、皆仲良くやっていた。商科には女生徒も数人いて雰囲気がなごむ時間もあった。特に親しい仲間は五~六人いたけど、親友は同じ畑浦から一緒に通学していた私より二つ年上の敏兄ちゃんこと、黒木敏雄であった。
 彼の家は農業も私の家よりかなり大型で家族も多かった。けれど、仕事も農業一本で頑張っていた。牛に鋤きや砕土機を引かせて夜暗くなるまで仕事をしていた。その彼が私と一緒に夜学に通う様になった。その行き帰り、色々と議論や主張をぶつけ合ったり、将来に向かって有益な時間が持てた。彼は中々の信念家で自分の主張は中々ゆずらなかった。
 日知屋開拓の仕事も終わり、それぞれの人に農地の分譲も終わって、日知屋平野に耳川の水が流れ込んで青々とした稲が風に揺られる様になった。私の父、弥吉達の日知屋開拓組合はそのまま存続していたけど、仕事の内容は一般農業組合的なものに変わっていき、弥吉の仕事も一段落してきた。
 ちょうどその頃、宮崎県の事業として、細島臨海工業地造成事業と言う港工事が始まった。まず、港を造って、そこに工業集団地を造ろうと言う訳である。また、県の産物をこの港から京阪神に向けて積み出そうとの考えである。県内外の請負業者が参入して来た。
 畑浦の地元の人達はそこに雇われて土方仕事をした。私も染谷組に土方として働いた。そのうちに浚渫工事も始まった。
 それにはまず岸壁をつくり、それで囲った内部に大きな浚渫船が海底の泥をポンプで吸い上げてそこに流し込む。すると砂土は沈殿して岸壁の高さまで砂土が一杯になってそこに工業用の陸地が生まれることになる。
 父、弥吉はその岸壁造りに必要なコンクリート用の砂や石を運ぶバラス船、それも古いものを買った。長さ二十㍍位あって、十五平方メートル位の砂や石やバラスを積んで岸壁に陸上げするのである。工事の下請け会社に一平方㍍いくらで売るのである。
 焼玉機関と言って、火薬でシリンダー上部を真っ赤に焼いて、そこにどろどろの重油を噴射して片手で半回転、前後と廻すとポンとはね返して回転が始まる。ポンポンと威勢のいい音を立てて走るのでポンポン船と呼んでいた(焼玉機関)。私が機関長で貢兄ちゃんが舵取り、もう一人の三人で働く、それもその砂や石などを採る所は荒波打ち寄せる砂浜や荒磯である。

最新記事