連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第13話

 その他、磯の浅瀬の石の下などにアカバと言って、頭部が大きく口も大きくて食べるところは少なかったけど、やはりおいしい魚であった。また、私達は良く荒磯にもぐって、さざえやあわびを採りに行ったものである。海のしける日は無理だけど、普通の日は荒磯でももぐってしまえばそれほど怖いものではなかった。三~四人の仲間とよく行ったものであった。
 この様に静かで平和で懐かしいあの村が、かの港湾整備造成事業が始まると急に騒々しくなってきた。
 昭和二十五年(一九五〇年)頃から始まったのだろうか。港湾造成事業も最初の頃は仕事もあまり機械化されておらず堤防を築くのに牧山の土をトロッコに積んで鉄路の上を走っていた。すべて手押しで、積むのもスコップで本当に原始的な労働であった。
 前にも書いた様に、それは染谷組の仕事で私もそこの日雇い人夫として働いた。少しの安い給料であったけど、現金収入はありがたかった。
 そのうちに浚渫工事が始まり自分たちの船で石や砂、バラス等、運ぶ様になったのだけど、この様に私の高校入学前後から高校卒業間際まで、つまり、私の十五才から二十才までの間、年代としては昭和二十五年(一九五〇年)から昭和三十年(一九五五年)まで、家族は私が中心的に母を支えて農業を守り、前述のように現金収入を計り、我が家の財政を守ってきたわけである。

    当時の家族活動状況

 父は相変わらず定職はなく、家の事より人の世話に生き甲斐を感じている様であった。日知屋開拓組合の事務所に働いていた信代姉も、その仕事が一段落すると、一足先に東京に働きに出ていた。弥栄香(絹枝)姉の所へ上京して行った。
 知足兄は父母に甘やかされて育てられた故か、自分のしたい放題で宮崎大学の師範学部を出たのかよく思い出せないけど、その後椎葉村の中学校で教鞭を取っていたこともある。そのうちに上京して早稲田大学に入学していたけど、そのうち退学して宮崎に帰り椎葉中学校の教え子の甲斐いしのと世帯を持った。
 ある期間、私共のあばらやで私共と生活を共にした事もあり、そこで長女のともえが生まれた。その後、町の方に別居していしのさんは木炭を売り、知足兄は植木屋やその他の職を色々変えながら、余りゆとりのある生活ではなかったようだ。生活苦からくる家庭内の不和も生まれてきていた。その後、次女の郁子が生まれ、三女の美津子が生まれた。そもそも、知足兄の考え方や行動が常軌を逸脱していて、いつも周囲に迷惑をかけていた。

最新記事