連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第15話

 昭和三十年(一九五五年)二月十六日、寒い日であった。私は富島定時制夜間部農科をやがて卒業することが決まり、その日は気分も楽になり、映画を観に富高に行った。そこが終わって外に出た所で、誰だったか良く記憶していないけど、父、弥吉が危篤だ、早く帰れと通知を受けた。自転車で家に急いだ。父はもう冷たくなっていた。父はその半年前頃から、俺は結核にかかったらしい。俺の食器類は別にしろ、などと言って、よく咳をしていた。結局、タンが気管につまっての窒息死だったようだ。五十七才の人生であった。

    ブラジル雄飛を決心

 ちょうどその頃である。何気なしに新聞を見ていると、ふと私の気を引く記事が眼に止まった(五月三十日)。ブラジルで農業をやる独身青年の募集であった。
 南米最大の日系の産業組合が三年間に千五百名の独身青年をブラジルに移住させ、そのコチア産業組合の次世代の担い手になって貰いたいという構想で、その組合の下元健吉専務が日本の農協中央会を送り出し機関として契約に調印して、いよいよ募集が始まったとの記事であった。
 この頃の日本の情勢は戦後十年が過ぎ、平和国家をかかげて、大分国力は回復して来てはいたものの、まだまだ農村の次・三男対策ははかばしくなく働く場所のない時代であった。当時の池田首相が「次・三男は麦飯を喰え」と失言して問題になった時代であった。私は十五~六才の頃から海外に憧れの気持ちを持っていた。よく世界地図を拡げて私の手の届く所、地図の上に夢をはせたものであった。中でも南米に興味をいだいたものだった。いつか行ってみたい。そんな気持ちも心の底にあったのだろう。 それが! その記事が目の前に踊っているのではないか!
 私は二十才になっていた。成人式を終えたばかりであった。とは言っても法的には二十一才にならねば自分の事は自分で決められない事になっていた。でも、私は居ても立ってもいられない気持ちだった。一まず母は反対した。私も母の立場を察した。黒木家の大黒柱として、特に父を亡くして間もない今、徳善が居なくなったら黒木家はどんなになるだろう。それに選りにも選って地球で一番遠い所に行ってしまえば、もう会えないかも知れない。なんとか考え直して止めてくれ、と言う母の気持ちは痛いほど解った。

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