ブラジル広島文化センター(吉広ロベルト貞夫会長)は6日午前8時15分、サンパウロ市の南米浄土真宗本願寺(西本願寺)で「広島原爆77周年慰霊法要」を3年ぶりに対面でしめやかに執り行い、22人が参加した。法要の様子は西本願寺のユーチューブでも生中継された。例年共催してきたブラジル被爆者平和協会は20年に解散したため、同県人会の単独開催となった。広島被爆者の盆子原国彦さんと渡辺淳子さんも出席した。
原爆が投下された8時15分ぴったりに、鐘が鳴らされ、原爆犠牲者に1分間の黙祷が捧げられた。ブラジル別院の梶原マリオ輪番ら3人が読経する中、参列者が順番に焼香した。
梶原輪番は法話の中で「私の父方の祖父も広島県出身。彼が戦前にブラジル移住していなかったら、私もここに居なかったかもしれない。原爆の話は決して他人ごとではない」と前置きし、「大戦中には寺から鐘などの鉄が徴用されて兵器に変えられ、仏教徒も徴兵され、不殺生戒という仏陀の教えに背く行為を強いられた。その挙げ句に原爆が落とされ、罪もない多数の市民が犠牲になった。だからこそ約2600年前に仏陀が残した平和の教えを今一度、思い返さないといけない」と解いた。
吉広会長も「ロシアによる核の脅しに加え、台湾で高まる危機感など現在も世界は原爆の恐怖に怯えている。核がある限り、この恐怖からは逃れられない」と挨拶し、参列者に感謝のメッセージを送った。
続いて、日本側からのメッセージが村上佳和副会長らによって代読された。松井一實(かずみ)広島市長からは、「核兵器廃絶の道のりは決して平たんではありませんが、市民社会の一人ひとりが核兵器はあってはならないという信念を持ち、それをしっかりと発信し続ければ、必ずや各国の為政者に核抑止政策の転換を決意させるための原動力になります。そうした意味から、本年も皆様が『広島原爆77周年慰霊法要』を開催されることは誠に意義深く、その取組に対して深い敬意を表します」との言葉が送られた。
さらに湯崎英彦広島県知事からも「来年5月には、『戦争の悲惨さ』『平和による繁栄』を実感できる、ここ広島において、G7サミットが開催されます。世界の政治リーダーに、被爆の実相に触れ、核兵器の非人道性を十分に認識していただくことで、核軍縮に向けた議論が進展することを期待しています」と来年を展望するメッセージが届いた。
「父のおかげで私は助かった」=盆子原さん被爆体験語る
「5歳の時でしたが、はっきりと覚えています。爆心地から2キロの地点にあった父の事務所の、たまたま中にいました。もしも外にいたらひとたまりもなかったかもしれません」――広島原爆77周年慰霊法要に参列した盆小原国彦さん(82歳、広島市)に改めて被爆体験を聞いた。
「ピカッという閃光が走った瞬間、父は私を机の下に押し込み、私の上に覆いかぶさってくれました。おかげで私は助かりました。直後に爆風でガラス片などが飛んできて、父の背中にはたくさん刺さっていました」。まさに九死に一生をえる経験をした。
でも母と姉にはその幸運は訪れなかった。「翌日、父と一緒に爆心地までいき、母と姉を必死に探しましたが、結局分かりませんでした。その時、黒い雨にも降られました」と振り返る。「このような経験はもう誰にもしてほしくない。どんな理由があろうとも原爆は廃絶しなければなりません」と強く訴えた。
そのような過酷な経験を乗り越えて、61年に南米産業開発青年隊の第6期として渡伯した。
ブラジル在住被爆者は一番多い時で270人もいたという。「米国に再移住した人、宝くじに当たって日本に帰った人もいました」と懐かしむ。
現在高齢化が進んでいるがまだ約70人が生存しており、モジ市やスザノ市に多く住んでいるという。ブラジル被爆者平和協会は20年12月にいったん解散、「在ブラジル原爆被爆者の会」と名称を変更し、法人登録せずに個々人が自主的に活動を行う「会」として存続することになった。
活動そのものは従来と変わらず、原爆の恐ろしさを伝えるために積極的に啓蒙イベントに参加を続けている。