《特別寄稿》誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩(16)リオの観衆を驚かせた大島守のハプニング

大島邸のサンバ・セッションで演奏する小野リサ(右端)、エリゼッチ(左端)手前のレピニッキはウイルソン・ダス・ネーヴェス、リサの隣は小野敏郎氏。大島守著「ボサ・ノヴァが流れる午後」より

日本初のブラジル音楽専門評論家の凝った自宅

 ボサノーヴァによってブラジル音楽が知られるようになった日本の1960年代から80年代にかけて、音楽誌上やレコードジャケットなどへの執筆によって有名になった大島守氏は、自他共に許す日本で初めてのブラジル音楽専門評論家である。
 何しろ本人の言葉を借りれば「防空壕で手巻き竹針の蓄音機をかけてカルメン・ミランダを聴いていたんだ」なのだから誰でも圧倒される。突拍子もない発言で舌を巻かせる事がしばしばあった。
 現在日本の主立ったブラジル音楽関係者で横浜西戸部の丘にある大島宅参りをした人は少なくないだろう。先ず邸宅の門に「エスタソン・プリメイラ」という大きな札がかかっているのには驚かされる。これはリオの一流エスコーラ・デ・サンバ「マンゲイラ」の名前で、マンゲイラ丘のふもとの駅が始発駅の次なのでこの名前をつけたのである。
 また、この鉄製の札は19世紀のブラジルで使用されていた道標をサンパウロに一軒しか残っていない鍛冶屋へ注文作製した代物なのだ。
 私が大島邸を訪問した時にトイレを借りてドアを閉めた途端に、天井からサンバのリズムが流れ出したのには笑い出してしまった。その上アフリカ密教ウンバンダで使用する香料の香りが立ちこもっているのだから、ブラキチもここまで凝れば立派なもんだと感心したのである。

家系は越前松平藩の能楽師範、稀代の社交家

 この邸宅で大島氏はブラジル音楽を教えていたから防音設備も整っていた。1977年にブラジルの代表的女性歌手エリゼッチ・カルドーゾが本邦公演した際にはバンド全員が大島宅を訪問して、サシペレレの小野敏郎オーナーが腕を振るったモラエス・ビーフに舌づつみを打ちながらサンバ・セッション(ローダ・デ・サンバ)が始まったのである。
 この時部屋の隅でじっと聞き入っていたのが中学生の小野リサちゃんだった。それから45年経ってリサちゃんは日本のボサノーヴァ女王となり、小野、大島両氏は亡くなり、エリゼッチ、マエストロ・セルジオ、ドラムの大家ウイルソン・ダス・ネーヴェスも他界してしまった。
 ブラジル音楽評論で活躍した大島守氏の風変わりな一面については音楽業界でもあまり知られていない。音楽大学を中退して進駐軍回りのジャズコンボでギターを弾いていたことぐらいしか伝えられていないが、本業は日本橋「岡地」に勤めていた株屋さんで、心霊学に造詣が深く、家系は越前松平藩の能楽師範をつとめた上村太兵衛師匠の六代目なのである。
 私が驚いたのは彼の尋常ではない社交術だった。ポルトガル語がまだブロークン会話だったのに彼はエリゼッチ・カルドーゾが一番敬愛していた日本人であり、また酒をたしなまないのに酒豪バーデン・パウエルの親友だったなんて傑作な話である。
 訪日して大島氏と知り合ったブラジル人ミュージシャンはオーシマ・ファンになり文通を交わす仲となっているのだ。まだコンピューター時代前だから航空郵便である。大島氏が日伯音楽交流に残した偉大な足跡をたどると分厚い本になってしまうので、今回はひとつの逸話を紹介しよう。

突然マイク向けられ「カリニョーゾ」歌いきる

代表的ショーロ作曲家でバンドリン奏者、ジャコー・ド・バンドリン(Unknown authorUnknown author, CC0, via Wikimedia Commons)

 ブラジルの代表的ショーロ作曲家でバンドリン奏者、ジャコー・ド・バンドリンの未亡人アディリアさんをエリゼッチから紹介されて以来、大島さんはジャコーの家族と親交が始まり、リオを訪れる度に家族と会食したり歯科医の娘さんが運転する車で市内を案内してもらったりしていた。
 彼はジャコーが愛用していたライカ・カメラや万年筆、バンドリンのピックなどを贈られて「家宝だよ」と言っていた。ある時、アディリア夫人はジャコーのバンドが死後に再編成されたのでコンサートへ大島さんをさそった。会場のFUNARTE(文化省芸術基金)ホールで、アディリアさんは多くの知人と挨拶しなければならなかったが、その人達はジャコー未亡人と同伴の日本人は一体何者?と怪訝な目で大島氏を見たそうである。
 そもそもリオ州の住人は1950年代前半まで日本人とはあまりコンタクトが無かったので、日本人を見てもシネース(中国人)と呼んでいた。リオ・デ・ジャネイロは1763年から首都となって近代都市としての形成が始まり、サンバもショーロも当地から発展したので文化の中心地という誇りを持っていた。
 だから自分たちの芸術と日本人を結びつける発想が浮かばなかったのは無理もない。その日の客演歌手はブラジルのショーロ女王とされていたアデミルデ・フォンセッカだった。
 歌う曲目がピシンギーニャの名曲「カリニョーゾ」になった時、ステージ真ん前の招待席へ歌いながら下りてきたアデミルデが、マイクをいきなり大島さんに向けたのである。すると彼は顔色ひとつ変えずにボソボソっとしたしゃがれ声で最後まで歌ったのである。
 司会者が「彼は日本からの訪問客です」というようなアナウンスをしたら大きな拍手が沸いたそうである。カリオカ文化圏の人々にとって、地球の反対側の日本人がブラジルの名曲をポ語で歌いこなすなんて信じられない現象だった。アデミルデも感嘆して「パラベンス(おめでとう)」と言った。

ブラジル人有名アーティストに惜しまれながら永眠

片山叔美のCDに参加したアデミルデの賛辞(2009年)

 舞台は一転して大島氏死後の話になる。群馬県玉村の片山叔美ふるさと大使は、日本のショーロ女王的存在であるが、2000年頃ショーロを初めて聴いて惚れ込み、ブラジルへ勉強しに行く決心をした。
 唯一の手がかりとなったショーロ女王アデミルデ・フォンセッカの自宅へ電話して研修方法を問い合わせたところ、思いがけなく「家へ来なさい」という答えが即座に返ってきたのである。
 突然電話した遠い国の見知らぬ娘を好意的に自宅へ同居させてショーロを教えるなんて、有名人アデミルデの善意に誰でも感心するが、私にはアデミルデの心情が理解できるような気がするのである。
 それは第一にショーロ・コンサートで大島氏との出会いによって、日本人の性格やブラジル音楽に対する熱情に感銘を受けた経験があること。第二はブラジルの若い世代の好みがボーダーレスとなり自国の芸術に対する無関心さに憂えていたこと、などが影響していると思う。
 それからもう一つ。心霊学者の大島氏が片山叔美ふるさと大使の背後霊となって導いたと言ったら笑われるだろうか?
 1997年7月12日、横浜の郊外で大島守氏は永眠した。享年68歳、ブラジルの音楽界で非常に惜しまれ多くの追悼文が寄せられた。
 大島氏が芸名の名付け親だったポップスター、パトリシア・マルクスは部屋にこもってオイオイと泣いた。
 ブラジル文化史の大家、ジョゼ・ラモス・チニョロン先生は「マモル・オーシマの死はブラジル音楽にとって大きな損失だ。良い話し相手を失くしてしまった」と電話をかけてきた。
 ジンボ・トリオは下記の弔文を送っている。
 《ブラジル音楽は、ほんの少数の人に大変な世話になっている。その一人は日本で30年間もブラジル音楽のために貢献したわれらの友人、大島守である。彼がいてくれたことは幸いであった。 サウダーデス》
                       ジンボ・トリオ(アミルトン・ゴドイ)サンパウロ、1997年7月25日

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