又、一度だけサンパウロ市から南へパラナ州境に近いカナネイアまで往復六〇〇㌔を、これもカミニョンの荷台に乗って魚釣りに行ったこともある。この様に娯楽は少なかったけれど、いい思い出として残っている。その当時はこれが当たり前でまだ贅沢な方だったのかも知れない。
そうしたら、ブラジル語の修得の方はどうだったのだろうか。
森田さんの農場からサンロッケの町に向かって四㌔位行った所にソロカミリンと言う部落(バイロ)があって、小学四年生までの寺小屋風の小さな学校があって、そこでベアトリス・ロドリゲスと言う若い独身の女教師が教えていた。そして彼女はそのすぐ近くに住むトニッコの家に下宿していた。トニッコは森田さんととても親しい仲だったので、森田さんに話してもらって、夜一時間位、週に二回位、田原君と二人、トラクターに乗って勉強に行ったものであった。それも余り長い期間ではなかった。ベアトリス先生がやがて他所へ移って行ったからである。それでも私は日ポ会話集から単語を別の紙に書き移して、いつもポケットの中に入れて勉強したものである。でも日常会話は農場のロッケとかアリセウたちとの会話で大分解る様になり、仕事の話し合いなど充分意思の疎通は出来たものであった。
この様に私の日常会話も仕事中心の毎日を送っていたのだけれど、来伯一年目から二年目頃だっただろうか、独り畑で仕事をする時など、急に故郷を思い出すことがあった。「今、ふるさとの母やきょうだい達は、どうしているかな」と昔のことなどに想いをはせて「大変だろうなー、苦労しているだろうなー」と感極まって涙がボロボロ次から次へと湧いてきて、押えきれない衝動におそわれるのであった。日本への手紙はよく書いた方だと思う。年に二~三回は出した。
嫁 探 し
割りに平凡な森田農場での生活が続くうちに、私の契約農年の四年間がやがて終わりに近くなって来た。この農場には日本からの戦後移民は谷脇さんの家族と独身の丸山君がいるけど「慧さんが独立する前に、もう二人位コチア青年に来てもらおう」と、森田さんの考えで一九五九年四月二十三日、サントス入港のあめりか丸でコチア青年第二次第一回生の宮城県出身の森田晃君と福島県出身の半沢勝之君が配耕されて来た。二人とも十八才の若ぞうであった。でもやる気十分、目が輝いていた。
その頃私も次の人生の目標、独立について思いをめぐらせていた。森田さんも私の口から出る前に「慧さんも嫁なしでは独立させないぞ」と冗談まじりによく言ったものだった。