私は母に手紙を出す時、注文を付けた。ブラジルは皆、背が高い人が多いので、なるべく背の高い、そして仕事の出来る健康な人を送って下さいと書いた。私自身が背が低く劣等感に悩まされていたので、我が子孫にはこの様な劣等感を味合わせたくなかったからだ。私はこの写真と文面を見て「バンザーイ」と叫ぶところだった。身長一六〇㎝、体重六〇kgとあった。二本の丈夫な足が体を支えていた。彼女のこと、黒木美佐子は私のいとこだったのである。私と美佐子はいとことは言っても、殆ど知らなかった。特に彼女は私のことを、こんないとこがブラジルにいるなんて全然知らなかったそうだ。
私としては終戦直後の昭和二十一年の夏、十二才の頃、熊本を旅して、私の叔父、黒木伝松の鍛冶小屋の脇で土にまみれて遊んでいた子供達の中の一人だったろうと想像するのである。そして母にも、伝松の子に美佐子と言うおせきばあさんによく似た子がいる話は聞かされていた。おせきばあさんは私の母や伝松の母堂である。
私はこの手紙を森田さん夫妻に見せた。何も隠すことはなかった。森田さんは写真を見て言った「この娘さんの足が気に入った。これこそブラジル向きだ」と。
それから数回の手紙のやり取りがあった。私は「貴方は何も持って来るものはない。丈夫な心と体さえ、私の所へ持って来れば良い」と書いた。それでも準備の金として、いく分かの金を送った。その時の送金にちょっとハプニングがあったのを今でも覚えている。と言うのは、南米銀行の係員がその金を使い込んだのである。送ったはずの金が届かないので銀行で調べて判明し、銀行の方で善処したけど、遅れて受取ることになったいきさつがあった。
(美佐子から私が受け取った最初の手紙に対して、私が書いた返事の手紙が現在、サンパウロの文化協会の資料館に、もう五年位展示されている)