日本入国管理センターという闇=〝隠れ移民大国〟の鉄格子なき牢獄=ノンフィクション作家 高橋幸春=《1》

 【編集部】著者の高橋幸春さんは70年代にパウリスタ新聞記者を務め、その後、帰国して東京でフリージャーリストとして活躍している。その彼が今回手掛けたテーマは、日系ブラジル人にとっても他人ごとではない深刻な話だ。例えば、2010年2月には東日本入管センターで20代のブラジル人男性が自殺している。最近でも東京新聞21年11月17日付《入管の警備員からヘッドロック、収容中のブラジル人男性が2週間のけが 国相手に損害賠償請求を検討》とあるように、日本入国管理局での乱暴な扱いは日系ブラジル人にも同様だからだ。万が一にも、自分たちの子や孫が祖国日本でそんな目に逢わないように、注意深く見守った方が良い件だと痛感したので、著者や月刊『望星』編集部に許可を得て、ここに転載することにした。(深)

デニスさんは牛久入管職員から暴行を受けた後、「保護室」に入れられた(提供代理人弁護士、2019年1月19日)

入国管理センターで起きている惨劇

 今から45年以上も前のことだ。私は移民の一人としてブラジルに移住し、サンパウロで日系人向けの日本語新聞、パウリスタ新聞の記者をしていた。当時の治安は最悪で、警察と強盗との銃撃戦も珍しくはなかった。
 警察に追い詰められ、逃げ場を失い、弾が尽きると彼らは降伏する。
 その後は、警察官が犯人を取り囲み、周囲に通行人がいてもそんなことはまったく無視して、犯人グループを殴り、蹴り倒す。犯人の顔を軍靴で踏みつけ、腹部を容赦なく蹴り続ける。
 その様子を目撃している通行人も警察官を制止しようとはしない。警察官は適当なところでリンチを止め、道に転がっている犯人をそのまま放置して引き上げていく。犯人を警察に連行しないのは、留置所も刑務所も凶悪犯であふれ、収容する余裕がないからだ。
 サンパウロで目撃した警察官の暴行は衆人環視の中で行われた。トーマス・アッシュ監督の『牛久』というドキュメンタリー映画を観て、それ以上の惨劇が今の日本で起きていると思った。場所は茨城県牛久市にある東日本入国管理センターだ。

「制圧」という名の虐待や拷問

 この施設はオーバーステイや、就労可能な査証を所持していない外国人が日本で働き、退去強制令書を出され、強制送還までの期間、収容される施設だ。全国に17か所あり、出入国在留管理庁のホームページ(HP)には「保安上支障がない範囲内において、できる限りの自由が与えられ、その属する国の風俗習慣、生活様式を尊重されています」と述べられ、健康管理についても「医師及び看護師が常駐し、被収容者の診療に当たっており、必要に応じて外部の病院に通院、入院させる等被収容者の健康管理に万全の対策が講じられています。また、被収容者の心情安定を図るため、臨床心理士によるカウンセリングを実施しています」とも記載されている。
 しかし、2021年3月、名古屋入管の施設に収容されていたスリランカ国籍のウィシュマ・サンダマリ(当時33)が「病死」した。彼女は17年に留学のために来日したが、その後「不法残留」となり入管施設に収容され、体調が悪化したにもかかわらず、必要な医療が受けられないまま死亡している。
 実はこうした悲劇は氷山の一角でしかない。
 2007年以降、昨年のウィシュマの死亡まで、入管の収容施設で16人が死亡している。病死7人、自殺5人、窒息死1人、餓死1人、調査中1人、ウィシュマは遺族が裁判を起こし、いずれ正確な死因は特定されるだろう。
 東日本入国管理センターは完全な「密室」だが、ここに収容されている外国人の様子をトーマス・アッシュ監督は、隠し撮りという方法で白日の下にさらした。
 それが『牛久』で、この映画は「世界最大級の日本映画の祭典 ドイツ2021”ニッポン・コネクション”」で「ニッポン・ドックス賞〔観客賞〕」を、アジアを代表する国際ドキュメンタリー映画祭「韓国2021”DMZDocs”」でも「アジアの視線」最優秀賞、オランダのカメラジャパンで「観客賞」を受賞し、日本各地、世界各国で上映され高い評価を得ている。
 この映画には、面会室でアクリル板越しに収容者が施設内での生活を語る姿が映し出されている。まるで刑務所の面会室のようだ。一人ひとりの証言にも心打たれるが、私が衝撃を受けたのはデニス(43)の映像だ。入管は「制圧」行為と主張しているが、その様子は「制圧」などというなまやさしいものではなく、暴行を取り越して虐待、拷問のように私には思えた。

「制圧」という名の集団暴行ではないか?(2019年1月19日)

「トルコにいたら、殺されると思った」

 デニスはトルコ国籍のクルド人だ。クルド人は「世界最大の少数民族」と呼ばれ、世界に2500万から3千万人ほどいると言われている。
 デニスがトルコから来日したのは07年、迫害から逃れるためだった。クルド人ということだけでトルコでは差別され、不当な取り扱いを受けた。民主化デモに加わった。すぐに警察に身柄を拘束され、暴行を受けた。
「ファシストに左足を刺されたこともあった」
 しかし、犯人は逮捕されなかった。
 クルド語を話しているだけで国家反逆罪とみなされた。
 トルコはクルド語の使用に制限を加えたり、人名、地区名をトルコ名に変更したりするなど、強引な「同化政策」を推進している。
 90年代に入りトルコ政府はトルコ南東部のクルド人が住む地区を空爆や戦車で破壊、それ以降多くの難民が海外に脱出するようになった。
 デモに参加したことで、家族にも脅迫電話がかかってきた。デニスが来日までの経緯を語ってくれた。
「トルコにそのまま止まれば、殺されると思った」
 脱出ルートは限られている。クルド人を国外に脱出させるブローカーもいるが、高額な金を要求される。
「金を渡したからと言って安全にヨーロッパに辿り着けるとも限らない。途中で出国が当局に知られれば殺されてしまう」
 パスポートもクルド人には簡単に発給してもらえない。デニスは両親、イギリス在住の姉から経済的支援を受け、旅券発給の担当者に金をつかませてパスポートを手に入れた。
「出国する時も、空港で何のトラブルも起きないように空港職員にも金を渡した」
 飛行機に搭乗し、離陸するまでに何が起きるかわからない。計画が露見し、身柄を拘束されてしまえばデニスに待ち受けているのは死だ。
 出国を決意してから実際にイスタンブールの国際空港を離れるまで1カ月。
「離陸した時は、もうトルコには戻れないという気持ちと、これからのことで不安でいっぱいだった」
 カタールのドーハで乗り継ぎ日本に向かった。
 何故、日本を目指したのか。日本とトルコの間には査証免除協定があり、日本に入国するにあたって査証は必要なかった。
「私は英語も日本語もまったくわからない。でも、日本は平和な国家、安全な社会だということくらいはわかっていた」
 07年5月10日、関西国際空港に降り立った。在留期間は90日と限られ、8月8日までの滞在が認められた。

難民申請者に立ちはだかる証拠書類という壁

 日本に入国できたが、姉が予約してくれたホテルがどこにあるのかもわからなかった。ホテルの住所をタクシー運転手に示してそこへ連れて行ってもらった。約1万5千円かかったというから、おそらく和歌山市内のホテルだろう。
 ホテルに宿泊しながら姉と連絡を取った。
「姉は英語が話せるので、通りがかりの人の中から英語の話せる人を見つけて、近くにあるネットカフェを聞いてもらった」
 ネットカフェの場所がわかると、デニスはそこでトルコ料理のレストランを探した。名古屋に一軒あった。すぐに電話を入れた。
「事情を説明して、少しの間面倒見てくれないかと頼み込んだ」
 名古屋のトルコ料理のレストランに向かい、そこで仕事を手伝い、しばらく生活させてもらった。しかし、その生活は長くは続かなかった。デニスがクルド人だとわかり、暴行を受けた。
「そこで働いている時、埼玉県にクルド人がたくさん住んでいる地区があることがわかった」
 デニスと同じような理由でトルコから逃れてきたクルド人が川口市、蕨市に住み始め、コミュニティが形成されていた。
「クルド人がたくさん住んでいると知り、ホッとしたことを覚えている」
 そのコミュニティに身を寄せた。家族が工面してくれた資金はすでに底を突いていた。
 解体業の仕事をしながら日々の糧を得た。
 来日したその年の暮れに、デニスは東京入管で法務大臣あてに難民申請を行った。
 日本は国連の難民条約に1981年に加盟し、翌年に発効している。
 難民とは、〈難民条約第1条又は議定書第1条の規定により定義される難民を意味し、それは、人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由として迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないか又はそれを望まない者〉と定義されている。
 難民は難民認定申請を行い、法務大臣から難民と認定されると難民条約に規定する保護を受けられる。難民認定は申請者から提出された証拠資料に基づいて判定される。この証拠書類にデニスは苦しめられる。難民申請者の前に証拠書類という壁が立ちはだかる。(つづく、月刊『望星』2022年9月号初出)

高橋幸春
たかはし・ゆきはる 1950年生まれ。東京在住のノンフィクション作家。早稲田大学第一文学部卒業。『蒼氓の大地』で第13回講談社ノンフィクション賞受賞。主な著書に『日系人の歴史を知ろう』(岩波ジュニア新書)、『透析患者を救う! 修復腎移植』(彩流社)、麻野涼の名で『県警出動』(徳間文庫)などの小説作品もある。

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