ミャンマーを追われたロヒンギャも冷酷に対応
自分の命を守るために自分の国から脱出しなければならない人は、世界全体で8930万人と言われている。日本の総人口の約7割が難民となり、安住の地を求めてさまよっていることになる。
群馬県館林に住むアウン・ティン(54)もその一人で、彼はロヒンギャだ。ロヒンギャは、仏教徒が9割を占めるミャンマーで、西部ラカイン州に暮らすイスラム教を信仰する少数民族だ。推定で人口110万人、海外で暮らすロヒンギャを含めると200万人以上だ。
1962年にクーデターによって政権を握ったネ・ウィン独裁時代から難民流出が始まり、78年に22万人、91年から92年にかけて27万人、そして2017年に74万人もの難民がバングラデシュに逃れた。
館林市周辺に約200人のロヒンギャが暮し、アウン・ティンは1990年7月にミャンマーを出国、来日したのは92年11月だった。
ネ・ウィンの独裁体制は高まる民主化要求に88年「辞任」に追い込まれた。しかし、ネ・ウィンの跡を引き継いだソウ・マウン大将も民主化運動を弾圧、数千人の民主化運動の活動家を虐殺した。ソウ・マウンは国家法秩序回復委員会を設置、公正な選挙後軍部は政治から撤退すると表明した。
90年5月総選挙が行われ、アウン・サン・スー・チーが率いる国民民主化連盟が大勝したが、軍事政権は政権を移譲せず、それまで以上の弾圧を加えるようになった。アウン・ティンもすでに3回、警察に身柄を拘束されていた。
「高校を終えて大学に入ろうとする年だった。民主化運動に参加していたことで、私の名前も逮捕者のリストに載っていた」
アウン・ティンはタイに出国した。
「マナプロウに逃げ込んだ者もいる」
ミャンマーはビルマ族が7割を占めるが、カレン、カチン、モン族など130以上の少数民族で構成される多民族国家でもある。マナプロウは自治権を要求して闘ってきたカレン族の拠点だ。ここに国民民主化連盟の議員、僧侶、弁護士、ジャーナリスト、民主化を求める学生らが加わり、ミャンマー国軍と戦っていた。
92年、私はタイ国境を越えてマナプロウを訪れ、カレン国民同盟のボーミャ議長を取材した。
「ミャンマーでは民主主義的な権利はすべて失われている。軍事政権はあらゆる少数民族に対して虐殺を行ってきた。88年まではビルマ族はその事実を知らなかったが、今はそれを知るようになった。彼らも人権侵害を受けているからだ」
タイに逃れたアウン・ティンはマレーシア、バングラデシュ、サウジアラビアに移動した。サウジアラビアで日本の観光査証を取得した。
「アメリカやカナダ、オーストラリアに逃れる者もいた。アメリカに渡るチャンスはあったけど、それでは距離的にも遠くなり、ミャンマーの民主化運動にかかわれなくなってしまうので、私は日本に行くことを決意した」
来日して間もなく難民申請を行ったが、それは不認可だった。
「UHNCR(国連難民高等弁務官事務所)の方は私を難民として認定してくれた。2回目はその証明書を付けて申請をした。難民認定は却下されたが、特別在留許可が下りた」
特別在留許可とは、本来は退去強制される外国人に対し、法務大臣が人道的な理由などで特別に在留を認めたものだ。
それにしても来日してから9年目、01年のことだ、特別在留許可を得たのは。
「多くの国はロヒンギャを難民として認定してくれる。ところが日本は、なかなか認定はしてくれないし、その数も少ない」
全国難民弁護団連絡会議によると、06年から20年にかけてミャンマー出身の難民申請者は9154人で、難民に認定された者214人、「人道的な配慮の必要性」から特別在留許可を得た者1622人、不認定になったものは5600人にも達する。
「証明する書類を集めろと入管は言うけれど、集められるはずがない。集めている余裕などないから難民になって国外に脱出した。それを何回も説明したけど、わかってはもらえなかった」
アウン・ティンも東日本入管センターに収容された経験がある。その時に言われた。
〈ミャンマーに戻っても安全だ〉
ミャンマーには母と5人の兄弟が残った。
「逃げた後、家には何度も警察が来て、私がどこにいるのかを聞いて回っていた。国に戻れば殺される。だから日本で暮らさせてほしいとお願いした。何も悪いことしていない。ただ、それだけなのに収容された。収容にいったい何の意味があるのだろうか」
特別在留許可を得るまでアウン・ティンも苦しい生活を余儀なくされた。
「ミャンマーそしてロヒンギャのための活動を日本で続けたいと思った」
アウン・ティンは07年に永住査証を取得した。さらに14年に帰化を申請、15年に日本国籍を取得。
軍事政権に経済援助を続けていた日本政府
一方、ミャンマーの混乱は続いていた。90年12月に民主化を推進する勢力はマナプロウに暫定政府を樹立した。首相に就任したのはアウン・サン・スー・チーの従兄にあたるセイン・ウィンだった。
当時のミャンマーを経済的に支えていたのは森林資源、漁業資源、鉱山採掘権の切り売り。そして「黄金の三角地帯」と呼ばれるミャンマー北部でのアヘンの栽培。さらに日本の経済援助だ。
日本は88年のクーデターを契機に援助を一度停止したが、大喪の礼に合わせるかのように89年には再開している。援助額は当時のミャンマーの年間予算の2割に近い額に達していた。
「日本政府の経済援助がビルマ(89年、軍事政権はビルマをミャンマーと改名した)国民のためになってほしい。人道的な面からだけの援助をお願いしたい」
と、婉曲な言い方だが、セイン・ウィンは日本の経済援助を批判した。同じことをボーミャ議長も学生のリーダーたちも口々に訴えた。
その後も政情は安定しなかった。11年、民政移管が行われた。16年にはスー・チーが国家顧問に就任している。しかし、仏教徒によるイスラム教徒への排斥が強まり、ラカイン州では12年に衝突事件が起きた。14万人ものロヒンギャが強制収容所に送られたといわれている。
17年には国軍による掃討作戦が展開され、74万人ものロヒンギャがバングラデシュに逃れ、死者は1万から2万5千人にものぼるとされる。ミャンマー政府は国連の司法機関である国際司法裁判所に訴えられ、20年には「ジェノサイド(集団殺害)につながる迫害を防止」するように命じられた。
21年、軍事クーデターが起きた、1800人もの犠牲者が出ている。
19年度のODA実績は1893億円だった。つまり日本は人権侵害と殺戮を繰り返し、難民を生み出すミャンマーの軍事政権に経済援助をずっと続けていたことになる。国内外の厳しい批判に、ミャンマーに対する新規経済援助の停止を21年3月に決めた。
バングラデシュのコックスバザールには累計で100万人以上のロヒンギャが難民として流出した。
「日本にもっとたくさんのロヒンギャを受け入れてほしいという気持もありますが……」
アウン・ティンはこう語るが、日本に入国するロヒンギャの難民はいない。82年に国籍法が改正されて、ロヒンギャは無国籍状態におかれている。
「パスポートを作ろうにも申請もできない。偽造パスポートで脱出しようとしても、デジタル化が進み、それも無理。これが現実なんです」
94年、アウン・ティンは在日ビルマロヒンギャ協会を設立した。設立当初の会員はわずかに7人だった。それが増えたとはいえロヒンギャのコミュニティはわずか300人だ。
「難民にも認定されず、特別在留許可も得られずに仮放免のままのロヒンギャがまだ数人います」
アウン・ティンは貿易商として活躍し、01年にロヒンギャの妻と結婚し、3人の子どもの父親でもある。
「難民キャンプの子供たちには夢がない。だから教育の機会をつくるために学校の建設を進めている」
アウン・ティンは家族にはもう30年会っていない。
「日本人に帰化しているものの、ミャンマーへの入国は慎重にと関係省庁から助言されている」
命を狙われる可能性が今も高い。
日本は新規の経済援助を見送った。しかし、その一方で防衛省は民政移管が行われた15年以降、ミャンマー国軍からの留学生を受け入れている。その数は8年間で30人にのぼる。
「国軍はジェノサイドをやっていると国連から指摘を受けています。そんな国軍に協力するのはどうかやめていただきたい」
アウン・ティンはこう訴えた。
ウイグルから逃れてきたグリスタンさん
もう一人、難民ではないが、帰国すれば命が危ういウイグル人女性のグリスタン・エズズ(38)についても書いておきたい。
「弟は2017年頃に強制収容所に入れられ、生死は不明、両親とは19年から連絡が取れなくなっています」
彼女が来日したのは05年、その後専門学校で簿記を学び、11年に流通経済大学経済学部に編入学し、13年に卒業。
15年に帰化を申請した。
「申請に必要なすべての種類を法務省に提出した後、いくら待っても結果が出ない。精神的にはものすごく追い詰められました。赤いパスポート(中国旅券)を一刻も早く捨てたいという思いだった。もし帰化が認められなかったら、どの国が亡命を受け入れてくれるのか、必死に探しました」
結果的には18年に帰化が認められ、今日に至っている。
「日本にきたのは、将来はウイグルと日本の架け橋になるような仕事をしたいという思いからでした」
しかし、日本で学ぶにつれて、ウイグルの現実を知ることになる。中国本土で公務員の給与が引き上げられても、それがウイグル自治区で実施されるのは3、4年も後だ。しかも昇給額は微々たるものだった。
「20年も同額の給与で働かされていた親戚もいたし、役所、工場、会社、学校などトップは中国人、その下にウイグル人が就き、トップの批判をすればNO2の役職は奪われてしまう」
21年、アメリカは中国がウイグル人に対してジェノサイドを行っていると認定している。ウイグルの文化、言葉を奪い、ウイグルの「中国化」を推し進めている。「08年以降、ウイグルの中国化が急速に進められ、一般家庭に中国人を送り込み、同居させるということまでしています。こんなこと、誰がどう考えてもおかしいでしょう」
少しでも逆らう素振りを見せれば、強制収容所送りになる。突然姿を消す者もいる。
「中国人が何か仕事で失敗をすれば、『お前は少数民族か』という言葉が自然に飛び交うほど、ウイグル人は差別されています」
ウイグル自治区における人権侵害の実態を、私が直接耳にしたのは、今から3年前のことだった。イギリスに亡命したウイグル人医師エンヴァー・トフティからウイグル人の臓器が摘出され、移植に用いられていると告げられた。(「望星」2020年4月号)
臓器を摘出されたのは銃殺刑を宣告された「死刑囚」だ。集団銃殺刑の刑場で、その「死刑囚」だけは右胸を撃ち抜かれ、まだ生存していた。その「死刑囚」からトフティは腎臓と肝臓を摘出した。この頃、中国の移植はまだ初期段階で、移植例を積み上げていた時期だと思われる。トフティはこの事実を亡命から15年後に明かしている。
しかし、トフティの亡命理由は、臓器移植について西側に公表したことではない。ウイグルで頻繁に核実験が行われ、がん患者が多発しているデータを西側のマスコミに流し、それが中国当局に伝わり、身の危険を感じてイギリスに逃れたのだ。
現在も、中国はウイグル人から摘出した臓器を、中国人だけではなく、海外からやってきた患者に高額な医療費を取って移植手術を行っているとみられる。(つづく、月刊『望星』2022年9月号初出)