「ゲバラが殺された時、私は同じサンタクルス県で家族と暮らしていた」
「ゲバラがラ・イゲーラで射殺された1967年、私は14歳の少年で、サンタクルスの郊外に家族と暮らしていました」。そんな臨場感あふれるセリフがオンライン講演「エルネスト・チェ・ゲバラ最後の日々」には散りばめられ、80人以上が固唾を飲んで視聴した。
ラテンアメリカ協会(佐々木幹夫会長)は8月4日、2022年度ラテンアメリカ「なるほどトーク」第4弾を開催した。講演者は在ボリビアの株式会社伊島の代表取締役島袋正克さん。沖縄から1963年第17次計画移民としてボリビアに移住し、沖縄復帰の翌年1973年に帰国。沖縄で会社を経営後、21年後の1994年にボリビア再移住したという個性的な経歴を持つ。
1959年のキューバ革命の英雄ゲバラは、南米でも革命運動を起こすべく、1967年にボリビアの東部サンタクルス県のジャングルに潜伏中、ボリビア軍に捕らえられて処刑された。
ゲバラが射殺された時、サンタクルスの町では大事件という認識はなく、民衆の一般的な反応は「無関心」だったという。島袋さんも関心なかったが、06年、日本から来た先輩に促され、ゲバラ終焉の地を訪ねる旅に行くことに。イゲーラ村から山道を2時間半ほど歩いた川岸で、ガイドは「ゲバラはここで、ガーリー・プラド大佐に捕まった」と説明した。
だが、土地勘のある島袋さんは《そこは盆地で、その周りを囲むように稜線が見下ろしていました》と実際にその場所を見て疑問を持った。《この地方には、当時も今もわずかな住民しか住んでいません。彼が革命の狼煙を上げても、その煙を見る者すら存在しない過疎地です。どうしてここで、彼はこの地で政府と対抗できるゲリラ隊員を、あるいは賛同者を得ることができると信じたのだろうか》とまず強く疑問に思ったという。
だが次に閃いた。《そのときノルテ(北)の風が通り過ぎました。私は風が向かった南の方向を振り返りました。そこを塞いでいる稜線を見上げていると、あることが思い浮かびました》
南の稜線を過ぎて尾根を越えれば、平坦な道がアルゼンチンまで続く。ゲバラがこの地を選択した理由は《Estrategia(戦略)ではなくNostalgia(郷愁)に違いないと…だから作戦は失敗に終わったのだと…》という結論に達した。
この講演の直前、島袋さんは同じサンタクルスに住むゲバラを逮捕したガーリー・プラド元将軍に話を聞きに行った。
プラド元将軍によれば《喘息持ちのゲバラは薬が切れて、薬を求めてゲリラと何度か集落に現れた》という失態を犯していた。《彼はアルヘンティーノで外国人だ。ボリビア共産党のモンヘも言ったが、外国人がトップでは誰もついてこない。キューバだってフィデルがトップだったから成功したんだ》と語ったという。
付近住民からのタレコミ情報受け、待ち伏せしたプラド大尉(当時)にゲバラは逮捕された。彼は両手を挙げて、プラド氏に「Yo soy Guebara, más vale vivo que muerto」(私はゲバラだ。殺すより生かしておいた置いた方が役立つぞ)と言ったという。
プラド氏は《その先のことは多くの本が出版されている。私も5冊書いた》といって、最近刊『La Guerrilla Inmolada』を見せ、「Él no tenía donde ir(彼は行くところがなかったのさ)」と最後に付け加えた。
島袋さんは話の途中で、ゲバラの遺体の発見現場の町バリェ・グランデを訪れた際、ゲバラ博物館の建設現場に立ち寄った。作業員と話をしたときに「ゲバラ没後40周年までに、この遺体発見現場にゲバラ博物館を建てるんだ。これから観光客が増えるぞ」と言われた話を紹介した。
《私は言葉に詰まった。社会主義革命に殉じたゲバラという男。村人は革命の対局にある金銭に変えようとしていると思ったからです。人々の逞しさに驚嘆するとともに、その欲望に辟易としたことを記憶しています》などと、ゲバラに対する乾いた地元感情を伝えた。
ボリビアでゲバラを支えた唯一の日系人
この講演を聞きながら、日系ゲリラ前村フレディの親族を取材したことを思い出した。12年2月11日付け《ゲバラと共に戦った前村=ブラジル親族と再会したボリビア子孫=第1回=政府軍に拷問の末、銃殺=「テロリスト」か「侍」か》(https://www.nikkeyshimbun.jp/2012/120211-61colonia.html)から始まる8回連載だ。
ボリビア移民2世の前村フレディ(1941—67)は、革命に無関心だったボリビア人の中では数少ないゲバラ賛同者で、ゲリラ部隊20数人で唯一の日系人だった。
フレディは2カ月以上も政府軍の追撃から逃れ続けてクタクタになっていた67年8月31日、サンタクルス県の山岳地帯で、地元民の密告により政府軍の待ち伏せを受けて捕獲された。
フレディは仲間を裏切って遺体の人物確認することを拒み、志を貫いて拷問のすえに銃殺された。まだ25歳だった。その2カ月後、39歳だったゲバラも政府軍に捕まり銃殺された。
フレディの物語は日本で映画化され『エルネスト』(17年、阪本順治監督)として公開された。オダギリジョーがフレディ役を演じている。
フレディの姉マリーとその息子エクトルはフレディの人物伝『El Samurai de la Revolocion』(スペイン語)を書いて06年に出版した。この本は反響を呼び、08年には日本でも翻訳版『革命の侍 チェ・ゲバラの下で戦った日系二世フレディ前村の生涯』(以下『侍』と略、長崎出版、松枝愛訳、伊高浩昭監修)が、09年にはポ語版『Samurai da Revolucao』(Editora Record)も出された。
2012年1月、本の宣伝ためにエクトルがサンパウロに来た際に取材した。彼によればフレディの父純吉は鹿児島県揖宿郡頴娃町(=現南九州市)出身で1913年に20歳でペルーに渡り、後にボリビアへ転住した。
1959年にキューバ革命が達成された後、同革命政府が募集した奨学金留学生には応募が殺到し、純吉の息子フレディはボリビア人第1期生としてハバナに留学した。
共同通信の名波正晴記者が09年4月15日付けで配信したフレディに関する記事には、《東西緊張の「最前線」にいたフレディは、ハバナで毎週末、ゲバラが留学生らと開いていた学習会に参加。「寡頭支配から中南米の解放」を熱く説くゲバラの理想に祖国ボリビアの貧富の格差を思い重ねた。ハバナ郊外での秘密軍事訓練にも加わり、66年11月、祖国に偽名で潜入した》とある。
ヘクトルは、「母ローザはフレディが自分の子供の中で最も日本人らしい特性、真面目さや勤勉さを持っていると愛していた。いわば侍の気質を受け継いでいた。フレディはその期待に応えて一生懸命に勉強した。だから革命運動に身を投じたときいた時、心から嘆き悲しんだ。侍の特性がゲバラの影響で社会の不正を糺す方向に発揮された」と語っていた。
世界を股にかけた激動の家族ストーリー
1913年、20歳だった純吉がまずペルーに移住し、それを追って弟重春(1895—1990)も向かった。フレディの父である兄はボリビアに転住したが、弟は首都リマに残って軽食堂を経営して儲け、日本人会役員を務めるほどの名士になった。重春の末っ子で、サンパウロ市で洗濯業を営む前村重朋に話を聞くと、驚くような家族の激動の物語が判明した。
大戦が近づくなか、米国の影響が強いペルーでは排日気運が高まり、愛国心の強い重春は「日本は必ず戦争に勝つ」と信じて、リマの家財を売り払って開戦直前に鹿児島へ引揚げた。裁判に訴えてリマ生まれの上の子7人の現地国籍と現地名を失くし、日本国籍と日本名だけにした。
ところが神戸港についたとたん、日本の官憲に全財産を没収された。開戦後、リマ邦人社会リーダーはみな米国に強制収容されたが、必勝を信じて帰ってきた祖国でまさかこんな目に遭うとは…。
終戦直後に鹿児島で生まれた重朋は「本当にひもじい生活でした。父は酒を飲んではリマでの豊かだった生活を思いだし、『あんなに成功していたのに帰らなきゃ良かった』と泣いていた」と思い出す。そんなときブラジルから嫁探しに来ていた男性と姉が結婚して移住した。その姉が呼び寄せて、1957年に一家全員が渡伯した。
弟重春は結局、ブラジルで洗濯屋として成功して計9人の子宝に恵まれた。その末っ子重朋は08年に訪日する際、「一緒にいかないか」とエクトルを誘った。2人で鹿児島を訪ねた時の様子を重朋はこう思い出す。「エクトルは突然涙をボロボロ流しながら言うんだ。『爺ちゃんは戻りたくても戻れなかった鹿児島に、自分はこうして来ている。爺ちゃんには故郷だが、僕にとっては全然知らない人たち。でもなぜかとても懐かしい感じがする。不思議な気持ちだ』と。凄く感慨深そうにいっていました」
祖父の郷里を訪れたエクトルは、明治維新の原動力となった薩摩藩の歴史を知り、「フレディには革命家の熱い血が流れていたに違いない」と確信した。前村家は日本、ペルー、ボリビア、ブラジル、キューバを巡って、世界大戦や冷戦構造という世界史的な流れに翻弄された家族だった。
ブラジルにもいたフレディのような闘士
ブラジルにもフレディのような日系革命闘士は何人もいた。同連載でも《例えばゲリラ武装闘争史上に残る73年のパラー州南部コンセイソン・デ・アラグアイアの闘いがマスコミで公に扱われたのは、軍による虐殺から6年も経った79年だった。たかだか50〜60人のゲリラ組織のために、軍部は延べ1万人といわれる掃討部隊を投入した。そのゲリラに加わった最後の一人が〃ジャポネジーニャ〃カナヤマ・ユミコで、「全身に約百発の機関銃の弾丸をうけて倒れた」(『サンパウロの暑い夏』、野呂義道、講談社、85年、176頁、以下『暑い夏』)とある。今でも軍部の反対で遺骨収集は終わっていない。もう一人のフレディがここに眠っている》と紹介した。
この8月5日に亡くなった、日伯毎日新聞の創立者・中林敏彦の次男で、労働者党(PT)創立者の一人でもある中林順(2世)もその一人だった。
1964年の軍事クーデターに疑問を感じ、66年にサンパウロ市のマッケンジー大学に進学する傍らUNE(全国学生連合)にも所属し、リーダー格になった。「都市ゲリラの教祖」革命家カルロス・マリゲーラのALN(民族解放行動)に身を投じ、キューバで軍事訓練を行うために出国する前日、仲間の左翼運動家と一緒にいるところを取り押さえられた。
人身保護請求によって釈放され、ウルグアイ、アルゼンチン、チリなどに亡命。79年にブラジルで恩赦令が出ることが分かり、78年に帰国。80年のPT結党に加わり、創立者の一人となった。
その後、PTの政治活動を支える傍ら、父を手伝って日毎の営業部長も一時務めた。中林敏彦社長は息子に「もしやるんだったら中途半端じゃだめだ。あとで泣きっ面になるんだったら最初からやめたほうがいい。やるんだったら徹底してやるんだね」(『暑い夏』80頁)と言っていたという。
邦字紙は当時、コロニア保守言論の中軸であり、このような左派擁護発言は表立ってはできなかったはずだ。でも心の中では、息子の気持ちを理解していた。中林は「ジュンたちの闘いは世直し運動だった。ブラジルにおける明治維新だったのかな」(同80頁)とまで考えていた。
島袋さんが「ボリビア人民衆はゲバラに無関心だった」と言うとおり、当時の日系社会でも日系活動家に関する理解は少なかった。
とはいえ、戦前の日本移民が持つ〝明治の精神〟が二世の中に純粋培養され、戦後の勝ち負け抗争の原因にもなったが、返す刀で、南米の格差社会を変革する運動にも発揮されたと言えないだろうか。
日本では、明治維新の志はあくまで国内に向けられたが、移民はそれを南米に持ち込み、二世は自らの命をかけて現地国に適用した。(敬称略、深)