連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第39話

 これで我が家も五人家族となった。何につけても不便な田舎暮らし、車が欲しくなった。思い切って有金をはたいて荷物と人との共用車のルラール・ウィリースの新車を買った。運転免許証もとれた。六十四年型で初めて自分の車を持って嬉しかった。

    事業の拡大と潅水ポンプと新しいトラクターを買う

 何か気持ちも大きくなった。もっと仕事を大きくしようと考えた。美佐子は余り乗り気ではなかった。私は無理に来年度の植え付けを二作合わせて四アルケール植える様に計画し、準備を進めた。その為には潅水ポンプが絶対必要だし、出来ればトラクターももう一台欲しい。まず、潅水ポンプを買うことにした。MWM印二十二馬力のポンプを半金入金して、あとはブラジル銀行の融資を受けた。その頃、農機具商の黒沢商会からトラクターの販売人が何回も売り込みにやって来ていた。私はとうとう根負けして当時の新機種のバルメット印のトラクターを買うことにした。トラクター購入にもブラジル銀行の融資を受けた。
一年据え置き三年払いである。トラクターが家に着いたのは一九六五年が明けていた。

    弟・巳知治の来伯

 一九六四年も年半ばを過ぎる頃から日本の弟、巳知治からブラジルに行きたいとの手紙を受け取る様になった。巳知治は私よりも七才年違いの弟で宮崎県延岡の向陽工業高校を出て、東京の日立製作所に勤めていた。何かそれに飽き足らずブラジルで農業をやってみたい、と言うのであった。私達の営農も何かと見通しもついたところで、日本への報道も私達はまぁ、うまく行っていると言う話しが伝わっていたのであろう。それが巳知治にそう言う気持ちを起こさせたのだろうと思う。一応、私が引き受けパトロンとなってコチア青年の枠で呼び寄せることになった。
 私は彼のために土壁の小さな小屋を造った。
 巳知治が着いたのは一九六五年四月だった。第二次の二十九回生である。私より十年後にブラジルにやって来た。弟、巳知治はやはり新しい日本の空気を吸って来たせいでもっと進取的に見えた。それまで自分達の写真を撮ることは余りなかったけれど、巳知治が来てからはスナップの写真が大分増えた。又、熊本の美佐子の母からの贈り物のテープ録音機で、日本の親や兄弟達の生の声をコピーしたものが聞ける様になったし、又、ブラジルの皆の声も送れる様になった。巳知治は良くトランペットを吹いた。巳知治の来伯で仕事も勢いが出て来た。

最新記事