連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第42話

 この様に私の家にカルトリオのジープがやって来ると、私もいい気持ちなんてもんじゃなかったけれど、美佐子はまた来たと騒ぐ気持ちを押さえて催促状を受け取っていた。毎日毎週、こんな嫌な毎日が続くと家庭内も気まずい空気となり、夫婦間の口論も多くなる。本当に逃げ出したくなる様な毎日だった。
 私達の場合、谷脇さんが資金繰りに行き詰まった時でも、ある程度の余裕は持っていた。それで二つ三つの銀行の支払いは私も裏書人(保証人)として立替払いも出来たけど、谷脇さんの支払い期日が次から次と来る様になると、私自身の借金も払わねばならず、もう万事休すとなった次第である。
 でも私自身が借りた分はなるべく頑張って支払うように努めた。

    共倒れ・破産・コチア組合のテコ入れ

 このような事態となり、カングエーラ区の仲間達はほとんどいもづる式に総倒れとなり、森田さんもかなりのテコ入れなどして手助けしてくれたけど、もうこうなったらコチア組合に泣きついて助けてもらう以外に方法はないと言う事になった。
 今まで付き合ってきた銀行や農業資材の商社との付き合いは仕方がないからそのまましばらく放っておくことにして心気一転、最初から組合の監督指導のもとでの出直し営農ということになった。営農資材は現物貸付け、生活費は月に最小限の前貸しがあり、本当にぎりぎりの生活が二~三年続いた。
 私達の場合、イリネウ・デ・モラエスの土地から自分達の土地へと移転(一九六五年七月)して、その年の八月に植えたバタタが悪かったのが転び始めで、自分の土地に植えた分はまぁ、いい作であったけど、近くに借地した土地がウィルスにやられて、その上に前記の様なあわれな銀行付き合いとなり、私達の生活も貧乏以下のどん底に落ち込んでしまった。農業機械類はそのままにしてくれたけど、ルラールウィリースのワゴン車はコチア組合に持って行かれた。この車も買ってから一~二年の間、子供達を連れてサントスの海浜とか、レジストロの近くのカベルナ・ド・ヂアーボの鍾乳洞などにも遊んだりしたものであった。でも、今乗り物がなくなって、町から十㌔も離れた農場での生活は非常に不便なものになった。専ら、その後の移動にはトラクターで動いたけど、でも悲しい毎日であった。

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