最初の仕事は日系の池森製作所であった。私達も喜んでいたら、二年も勤めないうちに他の伯人系の設計会社に移ると言う。それも前の会社よりもずっといい給料がもらえるとの話で、まぁ弟の能力が認められたのだろうと安心した。ところが、それから弟は次々と新しい会社に移って行くので、私が心配すると一応引っ張りだこでいい給料で引き抜かれるので仕方ないし、兄貴も心配せんでも良いとのことで、これがブラジル式だなと苦笑したことであった。
子供達の入学と学校生活
一九六八~六九年の私達は、泥沼を這いづり廻っていた最悪の時期で、それでもコチア組合から差し伸べられた糸にすがりながら、何とかバタタを植えさせてもらっていた。生活は極度に切り詰められ、子供達は破れた服を着て庭で遊んでいた。長女のるり子は七才になり、バルゼン・グランデの日本語学校に入学するのに寄宿舎に入ることになった。この近くに住む子供は歩いて通えるけれど、遠くに住む児童は皆寄宿舎に入らねばならない。帰宅は一ヵ月に一回しか認められない。るり子は初めて親元を離れての暮らしとあって、始めのうちは中々なじめず泣いて、お世話して下さる舎監のおじさん、おばさんや先生方を困らせたそうだ。一度は家に帰ると言って一人、私達の家に向けて歩いて帰ろうとしたそうだ。
次の年には一つ違いの弟、悟が入舎したのであるが、この時は少しは泣いたと言うけど、もう姉がいたので、すぐに慣れたとか。月に一度の帰宅日は森田さんの車にお世話になった。帰宅日は親も子も共に待ち遠しい。この様に親と子がある期間離れて生活することはかえって親子の絆を強めると私は思うのである。そして子供が寄宿舎での共同生活をすることは、子供それぞれの独立心を養う良い方法でもある。
我が家の子供達は五年間に四人が生まれたので、一九七二年には末っ子の絵理子も入学した。月に一度の帰宅制度はその後、父兄会の決議で週に一度、つまり毎週日曜日の帰宅が許された。
我が家の子ども達は四人共学校や寄宿舎での生活態度は良好で、担任の先生方にも良く褒められる事の方が多かった。非常に活発で積極的で、クラス内でも一応リーダー的存在であったようだ。
男の子の悟は活発さ故に、いたずらも多かった様で、先生に一目置かれていたそうだ。でも、入学してすぐから野球の指導を受け、小学二年生にして、正キャッチャーのポジションをもらい、その後対外試合などで名キャッチャーとして評判をとることになる。