二宮さんのコメントに襟をただす
本紙1面8月25日付《ホセ・キャリオカが生誕80周年=ブラジル生まれのディズニー・キャラクター》(https://www.brasilnippou.com/2022/220825-13brasil.html)記事に関して、日伯交流史や国際法に詳しい二宮正人弁護士からメールが来た。
南米初のディズニー・キャラクターとなった「ホセ・キャリオカ(ブラジルではゼー・カリオカ、José Carioca)」が誕生80周年を迎えた件を伯字紙から要約翻訳した記事だ。
ブラジル産オウム「パパガイオ」のキャラ、ゼー・カリオカがデビューしたのは、1942年8月24日に公開されたディズニー映画『ラテン・アメリカの旅』だ。主人公はおなじみのドナルド・ダックで、彼の南米旅行をブラジルで待っていたのがゼー・カリオカとの設定だ。
43分間のアニメーション映画は、アカデミー賞で楽曲賞、作曲賞、音響賞の3部門にノミネートされるなど好評だった。興行的にも大成功で、ディズニーは1945年に続編の『三人の騎士』でもゼー・カリオカを登場させた。
同記事の中では《これは、現在のように「人種や地域の多様性」が叫ばれる80年ほど前の話で、その先駆性でも注目される。ブラジルからハリウッドに進出した女優カルメン・ミランダが大成功を収めたのもほぼ同じ時期だ》と肯定的に書かれている。
これに関して、二宮さんから次のようなコメントが来た。
《本件に関する私見は、1930年代後半において、将来枢軸国との開戦を予見した米国がブラジル東北部に基地を建設するための布石であったことは、明白です。
当時のブラジルの法律では、外国がブラジルの領土内に基地を建設することは、戦時中において同盟国にのみ許容されることになっており、米国はそのことを承知して、ブラジルの世論を動かすため(そのほかにも経済援助を供与)にディズニー・プロダクションと契約してこの短編映画を作成させたものです。
これは、私のみの見解ではなく、小野耕世『ドナルド・ダックの世界像―ディズニーに見るアメリカの夢』(中公新書、1983年)においても述べられています。
従いまして、ウオルト・デイズニ―は米国の対敵プロパガンダ戦略の一環を担って、ゼー・カリオカとドナルド・ダック主役の短編映画によって、米国とブラジルを近づけようとしたことは明白です。
同様のキャラクターはベル―やボリビアにおいても作成されたようです。
今日、日本の若い世代がディズニーランドへ好んで出かけている姿を見るにあたり、80年前のこととはいえ、このような背景があったことは、おそらく何人も考えていないことと思います。もっとも、若い世代の中には、過去に日米戦争があったことを知らない者もいるそうなので、何をかいわんやです。
つまらぬことを書きましたが、耄碌しつつある老人のたわごととしてお聴き流しください》
このようなコメントを読むと、襟をたださなければと感じる。第2次大戦中の日本移民の苦難は、まさにこの部分に大きく関係しているからだ。
ネルソン・ロックフェラーが主導したプロパガンダ機関
二宮さんが編著翻訳者となって3月に出版された『ブラジルと日本の国交一二〇年-未来に向けた基礎の構築』(Intercultural)には事情が詳しく説明されている。
ゼー・カリオカがデビューした第2次大戦当時、米国は南米を〝裏庭〟のように扱っていた。それを明文化したものが1941年にペルーで開催された第8回汎米会議で採択された「リマ声明」だ。ここでは西半球の共同防衛が取り決められており、汎米諸国の領土や安全平和へのいかなる脅威も大陸全域の脅威と捕らえ、全加盟諸国が共同でその脅威と戦うように努めるという宣言が行われた。
中南米諸国が「ファシズム」に接近することを恐れた米国は当時、「善隣政策(Política de boa vizinhança)」を始めた。経済的優遇策と文化普及を通じて、北米の影響力を強め同盟国ブロックを形成しようとした。つまり、米国が敵と認識した相手とは、南北アメリカ大陸諸国が団結して戦うという取り決めだ。
大戦中、この善隣政策の流れで、アメリカ国内ではブラジルのコーヒーや音楽、カルメン・ミランダが称賛されるようになった。そしてブラジルではそれまで強かった欧州への憧れを忘れて、北米の物質文明の進歩、ハリウッド映画、ニュース、モダンな生活様式を賞賛し始めた。
同書52~54ページには次のような説明がある。《アルゼンチンやブラジルにはイタリア人の、またおなじようにチリやブラジルにはドイツ人の影響力が強い地方があり、これらの地域におけるナチ・ファシズムの伝播を防ぐことが懸念された。また、一九四〇年八月には大統領令を発して米州諸国へ経済、文化と教育の援助を検討し、許可するために米国政府内に専門部署を設置し、ネルソン・ソックフェラーが責任者に任命された。この機関は米州間通商文化調整事務所(Office for Cooordination of Commercial and Cultural Relations between the American Republicas、以下単にOCIAAとする)と呼ばれていた》
スタンダード・オイルの所有者であるアメリカの億万長者ネルソン・ロックフェラーがこの政策を主導した背景には、戦後の中南米を米国製品の大市場に育てる意図があったと言われる。
大戦中、米国の善隣政策で生まれたキャラ
《文化面におけるOCIAAの処置の一つは、四本の映画を制作するためにウォルト・ディズニー・プロダクションと契約したことであった。それはドナルド・ダック、ミッキー・マウスやその他の伝統的なキャラクターがすでに世界中で人気を享受していたことをふまえて、ボリビア、チリ、アルゼンチンとブラジルといった国々に特徴あるキャラクターを創作して映画の制作を企画した。現在においてもブラジルで人気のあるジョゼー・カリオカ(ゼー・カリオカともいう)はこの時創作されたキャラクターであり、ポルトガル生まれの女優カルメン・ミランダと共演する形をとった「ブラジルのアクァレラ」(Aquarela do Brasil)という短編映画で初公開され、一世を風靡した。OCIAAは米国とブラジルの間で連携意識を醸成する試みとして、ゼー・カリオカが米国の友人であるドナルド・ダックをブラジルに案内するという筋書きが作られた。そして、同じ手法がブラジル以外の諸国においても使用された》
OCIAAは中南米各国の世論を米国親派にするために、この機関は親米意識を高める活動も様々な手法で実施していた。映画やラジオ、テレビ番組、書籍、雑誌、新聞に資金を提供して、米国の政治的・産業的な利益を優先させた価値観を国内外に広めるプロパガンダを行った機関だ。
米国の報道・宣伝省(DIP)はOCIAAと密接に協力して、米国ラジオ番組をヴォス・ド・ブラジル(ブラジルの国営ラジオ放送)に提供して戦争と米国に関するニュースを広めた。
ルーズベルト大統領はOCIAAを作ったのとまさに同じ時期、1941年7月11日にそれまで国務省、陸軍省、海軍省などが別々に行っていた諜報活動の調整を担当するプロパガンダ機関として、情報調整局(OCOI=Office of the Coordinator of Information)を設置した。これが前身団体の一つとなって中央情報局(CIA)が生まれた。
OCIAAも同じような筋から生まれたプロパガンダ機関と考えられる。戦前からブラジルでは反日プロパガンダが現地メディアを通して行われ、日本移民はその反日報道の影響を受けたブラジル人から差別的な扱いを日常的にされていた(https://www.nikkeyshimbun.jp/2013/130613-62colonia.html)。
なぜ米国はブラジルでのプロパガンダに力を入れたか
なぜ、米国はブラジルでのプロパガンダに力を入れたかと言えば、どうしても連合国側に引き入れないと困る事情があったからだ。
だが当時はゼッツリオ・バルガス独裁政権時代であり、連合国側よりもむしろ、同じ独裁政権のムッソリーニのイタリアや、ヒトラーのドイツの方がより関係が密接な状態だった。とくにムッソリーニの影響は強く、統合労働法(1943年)は、1927年にイタリアのファシスト党が実施した「カルタ・デル・ラヴォーロ」に触発されたと言われる。つまり枢軸国側だ。
だが米国からアフリカや欧州に軍用機を飛ばすのに、当時の飛行機では航続距離がたりず、直接に飛べなかった。ブラジルのペルナンブッコ州あたりからアフリカ大陸に行くのが一番短距離で大西洋を渡れる。だから、そこに米軍基地を作らねばならず、ブラジルを連合国側にムリヤリ引き入れる必要があった。
前掲書にもこうある。《米国は枢軸国との戦争に備え、米州諸国、特にブラジルが連合国の一員になることを切望していた。とくに米国からポルトガル領アゾレス諸島を経由して北アフリカへ飛ぶにあたり、当時の飛行機の航続距離が短いことから、給油のためにブラジル北東地域に基地を確保する必要があった。それはまた、連合国の輸送船や艦艇の航行阻止を試みるドイツの潜水艦や軍艦が活動している大西洋南部水域の制空権を確保するためでもあった》(54ページ)。
ドイツ潜水艦がブラジル商船を沈めるようになったのは、ブラジルが連合国側についたためだ。1941年12月に日本が真珠湾攻撃したことを受け、米国は汎米外相会議を召集し、翌月42年1月に南米諸国に対して枢軸国側への外交断絶宣言を迫った。
《米国はブラジルの国内法において自国領土に外国の軍事基地を設置することは不可能であることを承知しつつ、例外として戦時下における同盟国に対しては可能であることを結論づけた》(同54ページ)。
だから米国は、ブラジルが連合国側につき、リマ声明にある戦時における特別な同盟関係に基づいて米軍基地を作るように交渉した。あめ玉として本来必要ない鉄鉱石の輸入などの経済的メリットの提供や、ブラジル産業が近代的するために喉から手が出るほど欲しかった製鉄所建設の支援をちらつかせた。
その結果、41年1月の汎米外相会議でブラジルは枢軸国側に外交断絶をした。その結果、翌2月から米国に向けのブラジル商船が大西洋でドイツ潜水艦に狙われ、続々と沈没させられるようになった。さらにヴァルガスは42年8月31日に枢軸国に宣戦布告し、44年から欧州遠征軍2万5千人を派遣した。
42年8月、ナタルやアマゾン河口の沖合でも、ブラジル商船が沈められたことを受け、フォルタレーザやベレンで日本人移民を含めて枢軸国移民への暴動が次々に起きている(https://www.nikkeyshimbun.jp/2016/160412-72colonia.html)。パラー州の日本移民はそれまで築いてきた財産を放棄して、トメアスー移住地に強制疎開させられた。事実上の強制収容所だった。
その流れの中で、ブラジル商船が出航したサントス港周辺で枢軸国移民がドイツに商船の動きを伝えるスパイ活動をしているという疑いがブラジル政府に生まれ、1943年7月8日の日本移民6500人を24時間以内強制立退きさせるサントス事件が起きた(https://www.nikkeyshimbun.jp/2021/210729-31colonia.html)。
実はディズニーも戦争被害者?
ただし、プロパガンダに協力したからディズニーは悪かったという話でもなさそうだ。『ディズニー伝説 天才と賢兄の企業創造物語』(ボブ・トマス著、山岡洋一、田中志ほり訳、日経BP社、1998年、196頁)によれば、真珠湾攻撃のすぐ後、カリフォルニア州ブエナビスタのディズニースタジオには500人のアメリカ陸軍兵士が乗り込んだという。
軍用車の修理と対空戦用兵器の管理のためという名目で軍が録音用スタジオを占拠し、300万発の弾丸の薬莢が駐車場に置かれることになった。軍は、ウォルトや兄ロイはもちろん、全従業員が指紋をとられ、身分証明のバッジを身につけるよう義務づけられ、スタジオの各ゲートには常時、憲兵が立つことになったとある。
こうしてスタジオは事実上〝プロパガンダの工場〟となった。同著作の中で兄ロイはこう語る。40年代には戦争があり、市場が凍結した。同社にとって厳しい10年間で、切羽詰まった状況に追い込まれた。社員はみな若かったため徴兵を受ける可能性があった。何人もの社員を失った。社員を奪われないよう、ウォルトは軍のための映画製作を始めた。この大義名分でスタッフをある程度会社に残し、事業を続けるための核の部分を維持できたという。
その過程でゼー・カリオカは生まれた。ディズニーもまた戦争犠牲者の一人かもしれない。(深)