破産状態からやっと立ち直る
一九七〇年になって、少しづつは経営も楽になりつつあったけど、借金の重圧はまだ体に重かった。それでも少しづつでも返済に努め、一九七四年頃に何とか世間に申し訳できる程に経営が落ち着いてきた。
破産してから七年間余、苦しい暗闇の時代だった。何とか食べ物はあったけど子供達の送迎の車が欲しかった。そんな時おんぼろでも動きさえすればよいと言って、買ったのがガタガタのねずみ色のコンビ車だった。一部が落ちそうにしていた。それでも嬉しかった。でもすぐに動かなくなり、次にはダルフィン印の、これもおんぼろ車を買った。イビウーナの町に用事に行った時、後部のエンジンから急に火が出て燃え出して、小さな悟と一緒に慌てて消し止めた事もあった。その後、森田農場で使っていたコンビ車をゆずってやっても良いとの話が出て、一九七四年の初め頃、まともに走る車を買うことが出来た。
この七年間の苦しい時代を振り返って思ったことは、この破産が若い年代で良かったと言うこと。試練の期間が少々長かったけど、いい反省の機会を神が与えて下さったのだろう。そして、又言えることは子供達は幼少時だったことで余り大きなショックを受けなかったことなど。物事は明るく発展的に考えるべきであろう。
私達の経営に明るさが見えて来た頃、一緒に倒れた仲間達はどうであったのだろうか。谷脇清重はすべて伯銀などにおさえられて無一文になり、ビンニョ・カエテ(カエテぶどう酒工場)の所有するサン・ミゲル・アルカンジョ郡内のファゼンダ農場の支配人として移転して行った。
又、カングエーラ植民地内にいた山下ひろや君は、アラソイアーバ郡にあるコチア産組の種鶏場で働く様になった。他の仲間達はコチア産組の助力で何とか立ち直り、自立することが出来た。
でも、そんな時にこんなエピソードも残っている。皆が破産のどん底でうめいていた頃、コチア産組の理事でカッポン・ボニート出身の角田さんが言ったものだ。「おい、お前達、心配するな。お前達の骨は俺がちゃんと拾ってやるからな」これを聞いて怒る者やら、苦笑する者やら、骨になって拾ってもらっても仕方ない。骨になる前に何とかして欲しいと。