連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第47話

    母、ぬいの訪伯と、弟・巳知治の結婚

 私達の農場経営も借金から解放されたと言う安堵感もあり、ここで無茶苦茶に走って来た過ぎた日々を振り返ってみると、私はブラジルに来て二十年が過ぎており、美佐子も一六年になった。私はどうであれ、私と一緒に頑張ってくれた妻の美佐子には、何としてでもここらあたりでふるさとの皆に会いに帰してあげたい。そう言う思いが湧いて来た。美佐子に打ち明けた。そしたら美佐子はこんな提案を出した。「私達がふるさとを訪ねる機会は今後あるだろうから、今回はそのお金で日本の二人の母を呼ぶことにしよう。その方が母達も喜ぶだろう」と言うことで話は決まり早速日本に手紙を出し、二人分の旅費を送金した。日本の母達は喜んでくれた。日本では毎年冬の農閑期に留守家族会のブラジル訪問団を派遣していた。母達もそれを利用しようと言うことで手続きを促した。
 そうしたら、私の母、ぬいはすぐに手続きに入ったけど、美佐子の母、政子は都合が良くないと言う。他にも理由があった様だけど、ちょうどその頃、政子さんの隣の小さな土地が売りに出ていてどうしてもそれが欲しかったのではと、あとで解った次第であった。
 そう言う訳で、この度はぬいの母さん(七十才)のみの訪伯となった。良く日時は思い出せないけれど、一九七四年の十二月のクリスマス前だったかと思う。その頃のサンパウロの国際空港はカンピーナスのビラ・コッポス空港であった。私達は子供も連れてコンビ車で出迎えに行った。たくさんの人達が税関を通って出迎えロビーに出て来るのに、中々、母さんは現れない。永らく首を長くして待っていると、やっと出て来た。日本着の小さなお婆ちゃんがとことこと走る様な足どりで出て来た。
 こんなに小さくなって背を曲げてずいぶん苦労したんだね、涙が出てきた。しっかりその背に手をやって抱きしめた。母も泣いていた。
 この年の夏は雨が多かった。私達はバタタの収穫が終わりに近づいていたけど、毎日の雨で掘ることも出来ず、ちょっと陽がさせば芋掘りに頑張った。日本の母も生まれて始めて寒くないクリスマスと正月を体験した。年が明けて一九七五年となっても雨の多い日が続いた。農作業が出来ないので母とは心ゆくまで話し合うことが出来た。母が言うには「この雨の多いのは神様が親子心ゆくまで話をしなさいと言っているのだよ」と苦笑した。
 弟、巳知治は町に出て結構いい給料取りになっていて、家も二軒ほど買って、余り心配する様なことはなかったけど、三十二才の独身は少し心配であった。そんなある日一九七一年六月十七日、一人の女性を連れてきて、今一緒に生活を始めたのだけど結婚をするつもりだ、と紹介してきた。

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