7月8日、安倍元総理暗殺という衝撃的なニュースが世界を駆け抜けた際、ボルソナロ大統領は「激しい怒りと悲しみを抱いている。安倍氏は輝かしいリーダーで、ブラジルの偉大な友人であり、日本との連帯を示す上で3日間喪に服する」と自らのツイッターで発信し、大統領令をだした。また、ブラジル日系社会の多くの方から、元総理の突然の逝去に対して「哀悼の意」が表明された。
日本では安倍元総理の国葬が27日に執り行われる。この機会に元総理に対する「深い感謝の気持ち」を込めて、元総理の日本・ブラジル関係強化への3つの貢献(①日系人社会との連携強化、②防衛交流・対話の推進、③スポーツ分野(サッカー、柔道)の交流強化)を紹介したい。
※肩書はすべて当時のもの。また、下記はすべて筆者個人の見解である。
《1》一つ目の貢献:日系社会との連携強化
安倍総理の2回のブラジル訪問
2014年8月安倍総理夫妻が、小泉総理以来、現役総理として10年ぶりにブラジル(ブラジリアとサンパウロ)を訪問し、2016年8月総理が単身でリオ・オリンピック閉会式に参加した。この二つの訪問にまつわる日系社会に関する四つのエピソードを紹介したい。
(1)安倍総理の指示とフォローアップ
安倍総理はサンパウロ訪問時に、政策スピーチを行い、中南米外交において「3つのジュントス」を指導理念とすることを表明した。またスピーチの中で、日系社会に関して「6世代にわたって、日系の皆さんが築いてこられた信頼こそは、中南米における日本に対する『礎』です。日系の皆さんが忍んだ労苦を思うとき、私はいつも襟を正したい思いに駆られます」と述べるとともに、「日系人次世代育成研修」と「日系社会ボランテイア」の大幅増にも言及した。
サンパウロでは夫妻は別行動をとられることが多く、その時、私は総理車に同乗した。車中で色々なテーマが話題になったが、その一つが「サンパウロ日系社会からの要望」であった。安倍総理は「日系社会は日本の最大の応援団であり、日本の『宝』である。日系社会支援策を充実させ、日本との連携を強化して欲しい」と語られた。
総理夫妻の訪伯直前にブラジルでは、FIFAワールドカップ(2014年6月―7月)が開催され、日本代表チームの試合がレシフェ、ナタール、クイアバで行われた。チームの応援と日本人観客の安全対策、高円宮妃殿下の受け入れ(ナタール)のために、各地の日系社会による全面的な支援があった。
日本代表チームは予選で敗退してしまったが、日本人観客を巻き込んだ深刻な事件・事故が一件も発生しなかったのは、日系社会の協力(空港到着時の案内、試合終了時の誘導など)のお陰であった。日系社会の「日本及び日本人に対する熱い思い」を肌で感じたばかりの私にとって、「総理の言葉」はとても大きな意味を持った。
安倍総理夫妻の訪伯後、大使館として、これまで以上に日系社会支援・連携強化に力を注いだ。ブラジル各地の日系団体、総領事館・領事事務所、JICA事務所、国際交流基金事務所から様々な提案を得て、多くの要請を東京に行った。
幸いなことに、東京では総理ブラジル訪問に同行した世耕官房副長官と長谷川補佐官が、官邸で日系人支援策強化のための「関係省庁局長レベル」の会議を開催し、支援策の実現化に向け後押ししてくれた。
日系社会支援のための関係省庁会議開催は、前例はなく、安倍総理が如何に日系社会を大切にされていたかを示す一例と考える。私は外務省退官後、安倍総理と長谷川補佐官を訪問した際、この点についてお礼を申し上げた。
また、2015年に麻生副総理、河村議員の指導により、「中南米の日系人を応援する議員連盟」が発足したことも、日系社会支援強化の「追い風」になった。
なお、具体的支援策は、招聘・研修・留学プログラムの拡充、日系ボランテイアの人数増、日系団体による日本語教育への支援強化、公教育における日本語導入、日本祭り支援、日系病院への設備支援、医療人材育成支援、日本食普及支援強化(婦人部日本招聘など)、「スポーツ・フォー・トゥモロー」の一環としてのスポーツ交流強化、柔道着やサッカーシューズ寄贈、草の根人間の安全保障無償資金協力を通じた各地の日系団体支援、レシフェ総領事館設置など多岐にわたる(ご関心のある方は、在ブラジル日本大使館のホームぺージに掲載されている「日系社会との連携強化のための施策」を参照願いたい)。
(2)安倍総理夫人
(イ)夫人がブラジリアで「公文教室」を訪問した際、子供たちに「一番好きなブラジル料理は何ですか」と質問し、一人の男子生徒が手を挙げて「すし」と大きな声で回答した。総理夫人はその回答に驚くとともに、微笑みながら「もし日本に来る機会があれば、ご馳走したい」と応答された。ブラジルにおける「日本文化の浸透ぶり」と夫人の「温かい人柄」を示すやり取りであった。
(ロ)総理夫人は、ブラジリアでは「日本語普及協会」を訪問し、サンパウロでは「ブラジル日本語センター」の板垣理事長と懇談して、それぞれに「昭恵文庫」を寄贈された。また、夫人のこれら施設の訪問・懇談を通じ、「ブラジル日本語センター」を中心とする各地の日本語普及協会の30年間にわたる貢献が日本の関係者に広く知られることとなり、2016年同センターの「国際交流基金賞」の受賞につながった。また「日本財団」からタブレット端末3百台が寄贈され、「ブラジル日本語センター」とブラジル各地をつなぐ教育が可能となった。
(3)懇談会と写真撮影
ブラジリアでは約200名、サンパウロでは約1200名、リオ・デ・ジャネイロでは、約150名の日系社会代表と懇談され、それぞれの地で、グループ(8―20名)毎に写真撮影がなされた。サンパウロでは終了まで一時間近く要したが、安倍夫妻は最後まで笑顔で臨まれた。おそらく各地の出席者全員にとって安倍総理(夫妻)との写真は「最高のプレゼント」になったと思う。
(4)交通事故
総理一行がブラジリアからサンパウロに夕方遅く到着し、空港から歓談会場に向かう途上、総理秘書官など主要随員10数名の乗ったバスが衝突事故にあった。総理ご夫妻は、幸いにも事故に巻き込まれることなく、病院で治療する一行の帰りを宿舎で待たれたが、この事故で打撲傷を負った人は複数いたものの、重傷者はおらず、夜遅く全員がホテルに到着した。
彼らの治療は、「サンタクルス病院」で日系人医師の手で行われ、処置を受けた人たちは病院における丁寧かつ温かい対応を総理夫妻に報告した。その後、病院側より治療費の請求は一切なく、総理一行全員が感激した。
《2》二つ目の貢献:「防衛交流・対話」の推進
(1)日本からの提案
日本とブラジルとの外交関係は120年以上の歴史があり、経済や人的交流、農業、環境保全、国連改革における協力など多岐にわたる分野で深化してきたが、海上自衛隊の練習艦隊によるブラジル訪問が数年ごとにあったとはいえ、「防衛交流・対話」はなかった。
2014年のブラジル訪問において安倍総理は、首脳会談や昼食会において「積極的平和主義」や「東アジア情勢」をルセーフ大統領に説明し、「共同声明」には「防衛交流・対話開始を検討する」ことが盛り込まれた。
これを受け2014年木原防衛政務官、2016年岩田陸幕長(史上初)、2018年山本防衛副大臣がブラジルを訪問し、ブラジル側関係者と意見交換を行った。ブラジルからも、2017年陸軍参謀本部国際部長、2019年史上初となる陸軍司令官の訪日が実現し、2020年には日ブラジル防衛協力・交流覚書が署名され、防衛大臣間のテレビ会談が行われた。
防衛交流の開始は、山内(初代)防衛駐在官の日本大使館着任(2014年7月)のタイミングと重なった。なお2014年当時ブラジル空軍司令官は日系人のサイトウ氏であったが、山内防衛駐在官を通じてブラジル陸軍、海軍、空軍内に多くの日系人将官が活躍していることを知りえたことは、新鮮な驚きであった。
(2)提案の背景
提案の背景には、次のような事情があった。
(イ)大国となった中国の南シナ海や東シナ海における攻撃的な動きにより、アジアの安全保障環境が不安定化していること。
(ロ)ブラジルは南米一の大国、G4の仲間(日独印伯、安保理改革を目指すグループ)、BRICS、G20のメンバー国であり、国際舞台で大きな影響力を有していること。2014年7月ブラジルで開催されたBRICS首脳会議で、BRRICS投資銀行の設立が合意されたことも注目された、
(ハ)中国は2009年に米国を抜いてブラジル最大の貿易相手国となった。それ以降もブラジル経済の対中依存度は年々高くなっており、また安全保障面でも交流を強化していることがあった。
日本としては、「自由と民主主義」、「法の支配」といった価値を共有するブラジルの政府高官、国会議員等と「アジアにおける安全保障環境」について正確な情報共有をすることが、二国間関係の発展のみならず、国際舞台における協力にも不可欠と考えたからである。
なお国会議員については、総理訪問の際に公表された「JUNTOS」という招聘プログラムが立ち上げられ、現在も多くの国会議員が日本を訪問している。
《3》三つ目の貢献:スポーツ分野(サッカー、柔道)
(1)サッカー「感謝の集い」
2014年安倍総理がブラジルを訪問した際、ブラジリアのホテルでジーコ、アルシンド、サンパイオ、オスカー、ドゥンガ、ビスマルク、セルジオ越後、マリーニョのブラジルサッカー関係者8名を招き、日本政府主催の「感謝の集い」が開催された。
日本側からは、総理に加え、世耕官房副長官、木村総理大臣補佐官、大仁日本サッカー協会会長などが出席した。総理は、「日本サッカーの発展に対するブラジル関係者の皆さんの多大なる貢献に感謝したい。また、東日本大震災の直後には、チャリティ・マッチの開催など心温まる支援をいただいたことにお礼を申し上げたい」と発言。
代表者のジーコ氏に「感謝」の文字を刻んだトロフィーを贈呈し、パスの交換を行った。「この感謝の集い」は、写真入りで首脳会談より大々的に報道された。
(2)「リオから東京へ」:柔道
2014年、安倍総理はサンパウロで開催された「スポーツ・フォ・トゥモロー 日系社会が結ぶ日伯スポーツの絆「リオから東京へ」の会合」に出席し、ブラジルスポーツ界で貢献のある日系人アスリートを激励した。また、柔道着、卓球道具、野球・ソフトボールの道具を寄贈した。
この「スポーツ・フォ・トゥモローの精神」及び「リオから東京へ」という考えが、2016年10月、テメル大統領の訪日の折、文部科学大臣と伯スポーツ大臣の間で、「スポーツ交流・教育にかかわる覚書」の締結につながった。そしてこの覚書に基づき、柔道をブラジルの学校教育に導入するプロジェクトが動きだし、着実に成果を上げている。
その背景には、ブラジル講道館柔道有段者会の(故)岡野脩平名誉会長および(故)関根隆範氏の弛まぬご尽力があった。なおブラジル柔道の競技人口は200万人以上で世界一多い。日本の10倍以上である。ブラジルの柔道普及における日系社会の貢献は非常に大きい。
(3)リオ・オリンピック・パラリンピック
(イ)「マリオ」
2016年8月、安倍総理は閉会式に参加するためリオ・デ・ジャネイロに到着した。最初の行事は閉会式の予行演習であったが、数人だけで入念に行われた。私はその時初めて「総理がマリオに扮して登場する」ことを知ったが、「マリオ」のことは当日まで総理側近だけの「極秘事項」であった。
その後、総理はジャパン・ハウス(大会期間中特設された建物)を訪れて、日本選手の皆さんの健闘が日本国民に「夢と元気」を与えてくれたと述べて感謝の意を伝えた。そして雨の中、開催された閉会式では、「マリオ」に扮した総理が、地球の反対側に位置する日本から地中を通ってブラジルに到着、「土管」から登場して、次回東京大会のプロモーションを行った。とても個性的かつ印象的な広報活動であった。
(ロ)日系人医師
リオ・オリンピック・パラリンピック期間中、日本人観客対応のため、サンパウロの日系病院の日系人医師がリオに派遣され、終始待機していた。またサンパウロでも万が一に備えて24時間体制を構築していたことも記憶にとどめておきたい。
《4》最後に
(1)安倍総理のブラジル訪問(2014年及び16年)から6年が経過した。ブラジルからは、テメル大統領が2016年10月、ボルソナロ大統領が2019年5月(G20大阪首脳会議)および12月(天皇陛下「即位礼正殿の儀」)に訪日した。
ロシアや中国が国際秩序を「力」で変更しようと試み、資源や食料不足が懸念される中、資源・食料大国であり、自由・民主主義という基本理念を共有するブラジルとの関係強化は日本の国益にとって重要である。今年10月ブラジルでは大統領選挙が行われる。どの候補者が勝利しようとも、岸田総理の早期ブラジル訪問を期待したい。
(2)また日系社会との関係では、4年前に導入された「日系4世の更なる受け入れ制度」が期待された成果を上げていない現状に鑑み、改善が必要なことは明らかであり、「政治のリーダーシップ」が求められる。
(肩書は2014年当時、2022年9月記)