また反対に春から夏の陽の長い時季は放っておけば、花芽がつかずにどんどん伸びてしまうので、ある一定の高さになったらシェードと言って、黒いプラスチックのフィルムで菊畑を覆って中を暗くして、人為的に日照時間を短くして花芽分化を起こさせるのである。これが電照菊栽培の原理と作業要領である。
電照菊は苗作りに三十日、定植して三〇日間電照してそのあと六○~七〇日で収穫、出荷となり、年間同じ畑に三回から三・五回転することになる。一度失敗しても四ヶ月待てば次の作に期待できる。また、資金の回転も早く、毎週収入があるので資金繰りは楽である。
その頃すでに、電照菊の需要はもう飽和状態だと言う者もかなりいて、私もある程度の不安は持っていた。だが、前に述べた様に、養鶏もバタタも行き詰まりを感じていた時であり、自分の所有地内でやれる花作りは絶対魅力があった。それに白旗さんや山下さんが始めたばかりなのに、絶対有望だと自信を持って言うので追い風となった。
一九七七年になって、その年半ばの六月頃から苗作りを始め、年の暮れに初出荷を行った。わずかの量の出荷であったけど、これは行けると言う手ごたえを感じた。ラポーゾ・タヴァレス街道一八㌔のジャルジン・アルポアドールの日比野さんの集荷所まで、毎週二回コンビ車でほとんど夜間に運んだ。いつも美佐子も同乗した。子供達は寄宿舎生活なので、誰も家にいなかったからだ。
日比野さんの集荷所にはいつもイビウーナの斉藤さんのマルガリーダ菊や、大輪菊のインデアノポリス種が入荷していた。私の菊は斉藤さんの菊の品質にあまり劣ってはいないと思うのにいつも低い値をつけられて、時々文句を言ったこともある。その頃の日比野さんの所の販売人は山口さんと言う青年であった。
一九七八年になって菊のハウスをどんどん増築した。七九年になると大体電照菊で生計が立てられる見通しがついた所でバタタの植付けを止め、フランゴ養鶏も一九八〇年二月の出荷を最後に中止することにした。
バタタとフランゴ養鶏を止めたことで、ある程度お金に余裕が出来たので、ここら辺りで「ふるさと訪問」を美佐子と話し合った。一口にふるさと訪問と言っても、それはそれなりの準備が整わなければならない。まず今の仕事を止めることは出来ない。そこで私達の留守中仕事を任せられる日本人の家族を探すことになり、あちらこちら当たってみると、北パラナにその様な家族がいることをつきとめ、その交渉に行くことになった。当時弟の巳知治がフィアットの軽乗用車を持っていたので、それを借りて、六〇〇㌔奥地のロンドリーナ市まで往復一二〇〇㌔の旅をした。