そして松原さん親子四人が私達のシチオにやってきた。一九七九年十月十四日の事であった。
弟・巳知治夫婦の初訪日と、とみ子の死
その頃と前後して、巳知治夫婦の出来事について話さねばならない。弟巳知治ととみ子さんの仲は案外うまく行っている様に見えたので私達も安心していた。一九七九年の春、巳知治は会社の休みを利用して一ヶ月のふるさと訪問を行った。勿論とみ子さん同伴の旅であった。ところがである。訪日の旅から帰伯して問題が起きた。
一九七九年六月十四日、その日は美佐子の四十才の誕生日で、そのお祝いの夕食をタボアオンのレストランで子供達と一緒に楽しいひと時を過ごし、家に帰って寝についた。
次の日の夜明け前、午前四時頃だっただろうか、バルゼン・グランデ在住の橋詰真太郎さん夫婦が、わざわざ私達のシチオまで車でやってきて「あんたの弟さんの奥さんが死亡した」と通知してくれた。巳知治から橋詰さんに電話があったそうだ。私達はびっくりした。何をさて置いて、ジャルジン・アルポアドールの巳知治の家に飛んで行った。十人余りの隣近所のブラジル人達がいて警察もいた。巳知治達がいつも親しくしている藤岡さんもいた。首つり自殺であった。死体はすでに寝台に横にしてあった。夜が明けて、葬儀手続きなど走り回ったのだけれど、余り鮮明な記憶はない。墓地は芝生に覆われた静かできれいなモルンビー公園墓地に埋葬された。この墓地には、その後、自動車F-1レーサーとして有名なアイルトン・セーナもとみ子さんの五〇㍍位下方に埋葬されている。
私達はその後、毎年お盆が来るとその墓に花を供えてお参りしている。とみ子さんは正式に黒木巳知治の妻として登記していたので、墓地のプレートにはTOMIKO KUROKI―1979・6・15死亡 と記されている。
幸か不幸か二人の間に子供は生まれなかった。とみ子さんの死により、黒木家から除籍され、巳知治は若い男やもめとなった。そんなことがあって、後、巳知治は住まいをサンパウロ市の中心、リベルダーデ区のアパートに移し、ある期間は私達の娘、るり子や恵美達と同じビルに住んだ事もあった。そのビルの所在地はブエノ・デ・アンドラーデ通りで管理人は渡辺さんのご夫婦であった。
長女るり子はこのアパートから、昼はパウリスタ地区にある日本商工会議所で働き、夜はブタンタン区のサンパウロ総合大学日本語科で学んでいた。長男の悟は高校三年を終えて、州立の農科大学を二校受験して失敗、再度を期して予備校に入る準備を進めていた、十八才になったと言うことで、自動車の運転免許も取った。