《特別寄稿》誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=(18)=ブラジル国音楽業界が感服した 日本人プロデューサー板橋 純

日本人制作日本発売のジョニー初録音曲CD(BOSSANOVOLOGIA、2002年)

日本人が制作したブラジル音楽出版物で一番クールなCD

 今回は日本人が持つ繊細な感受性と職人根性的凝り性にブラジル人が称賛した逸話である。
 NHKTV人気番組「クール ジャパン」は在日外国人が日本独特の風物習慣について印象を述べるのであるが、もしブラジルの音楽関係者を集めて「日本人が制作したブラジル音楽出版物で一番クールなのは何か」と質問したら、全員が手を上げるのはジョニー・アルフ最後のCD「マイス・ウン・ソン」であろう。
 このレコードのプロデューサーが板橋純氏なのである。マスコミ上にあまり顔が出ないのは彼の社交的でない内気な性格の他に、専門がプレボサノーヴァ期のジャズサンバ系器楽奏者という非常に限られた分野だからである。日本におけるブラジル音楽評論家の草分け大島守氏の一番弟子だったから、師匠亡き後、この分野でこの人の右に出る者はいない。
 板橋純、1956年生まれの江戸っ子。國學院大學卒業後、レコード制作のディスクユニオン社ジャズ担当者として勤務していた時に、ジャズマンだった大島氏と知り合ったのだから話がよく合ったのは当然である。
 しかし板橋氏はラジオから流れた森山良子の伴奏リズムがブラジル風だったのがきっかけでジャズサンバにはまり込んだ。それ以来、横浜の港が見える丘にある大島邸に出入りして息の合った師弟関係となり、師匠が脳卒中で倒れてから大島氏創立のレコード制作社「ボサノヴォロジーア」を引き継いだ。
 事の始めは訪伯から帰ってきた大島氏がサンパウロのジョニー・アルフ宅を訪問した話からである。

ジャケットに本人が希望して自筆で書いたメッセージ

 ジョニー・アルフはブラジル音楽ファンなら誰でも知っているボサノーヴァの元祖とされている作詞作曲家、歌手兼ピアニストという多才な黒人音楽家である。
 本名アルフレド・ジョゼ・ダ・シルヴァ、1929年リオ生まれ。9歳からピアノを習い始めたが米国のジョージ・ガーシュインやコール・ポーターにあこがれて、1940年代後半には米伯協会に通い、英語や音楽での交流活動に熱中した。
 芸名のジョニー・アルフは当時アメリカ婦人がつけたニックネームである。1949年にリオのチジューカ区にあったシナトラ・ファーネイ・ファンクラブでジョニーのジャズ的センスに磨きがかかった。
 だからサンバ中心街ビラ・イザベルの育ちながらジャズマンとしての洗礼を受けたわけである。 今から70年近く前にジョニーが演奏していたコパカバーナのホテル・プラザのバーへ、ボサノーヴァ創始者とされるジョアン・ジルベルトやトム・ジョビンがジョニーを聴くために、いわゆる「プラザ参り」をしていたのだから貫禄あるネームバリューである。
 しかしジョニーはカリオカらしくない無口で内気な性格なので、自分にとって居心地の良いサンパウロへ1960年代始めに移転してしまった。

ブラジル音楽界から忘れられた天才を日本人が発掘

レコーディング中のジョニー(板橋氏提供)

 大島氏が訪問したのは折しもブラジル音楽の暗黒期で、ジョニーの名はとっくに忘れられ、彼の作品もラジオ、テレビでは全然聞かれなかった頃であった。
 大島氏はジョニーが庶民住宅地モッカ区の古い小さなみすぼらしい家に住んでいたのにショックを受けた。
 「この辺は好きなんですか?」なんて、ズバリと失礼な質問をしたら彼は、「僕はサンパウロへ引っ越してからずっとモッカに住んでいるんだ。イタリア移民が集まった古い街でね、朝パン屋へ行くと皆が〔お早うございます〕と挨拶を交わすのだよ。今時こんなに気持ちいい場所はないよ」と答えたのである。
 そして帰国してから板橋氏への第一声が独特の大島節だった。「ブラジルは大金持ちだ、ドルを海に捨てている」。
 これにはキョトンとしてしまった板橋氏に大島氏が言いたかったのは、金を生む天才に見向きもしないブラジルに対する憤りだったのである。
 板橋氏にとってはジョニーが沢山たまった自演未発表曲の特集レコードを出したいと大手レコード会社を回ったが、どこも相手にしてくれなくて十数年経った、と聞いたのが大ショックだった。
 そして2002年10月、サンパウロでジョニー・アルフ自演未発表曲集のCD録音を実現したのである。これは大島師匠への弔い合戦という意義もあった。事前に通訳やコンタクトを頼まれていた私にとって、板橋氏の凝りに凝ったレコーディング条件に頭を抱えてしまった。
 先ず第一の希望として「坂尾さんが1950年代にリオで聴き歩いた時のサウンドをそっくり再表現したいのですよ」だったのである。私は1960年代にアストロフォーン・レコード社のプロデューサーをやったので多少の知識はあるが、音に超敏感な耳を持っている板橋氏には私などの及ぶところではない。
 何しろ板橋氏がブラジル人のレコードを聴いて、この奏者は米国の誰々が好きに違いない、と言ったのを私がメモしておいて、その奏者に会った時に「君の好きなアメリカのミュージシャンは誰か?」と質問すると板橋氏が言った名前とピッタリすることがしばしばだったのだから驚異的な耳の持ち主なのである。
 そこで要望通りに、スチューダーの2インチ・オープンテープによるピックアップマイク無しで、アナログ一発録り完全無編集を実行できるスタジオを探したら、一千万人の大都市で条件に応じられるのは2か所だけだった。結局選んだのは私の知人ワルテル・サントスが経営するノッソスタジオで、わがままを気楽に頼めるのがメリットだった。
 ワルテル・オーナーは若い頃、まだジョアン・ジルベルトがリオへ移る以前バイアでジョアンにギターのモダンな和音の押さえ方を教えた元シンガーソングライターで、音楽史上のVIPなのである。

話題を呼び日本だけでなくブラジルでも発売に

満足顔でコーヒーブレークの板橋氏(筆者提供)

 ジョニーが連れて来た伴奏クアルテットのメンバーは音楽大学卒の若手ジャズマンだったが、欧米人が演奏するボサノーヴァとは違うブラジリアン・スピリットにあふれたスイング感は最高だった。板橋氏がジョニーに「ホテル・プラザで出演当時と同じ弾き方でお願いします」と頼んだら彼は「ジュン、僕は全然変わってないよ」と笑って答えた。
 3日間のレコーディングが終わって打ち上げの時、ワルテル・オーナーは「ミスター・ジュンのような名プロデューサーが日本からはるばるやって来て、私のスタジオを選んでくれたのは大きな誇りです」と謝意を述べた。ジョニーは「僕の夢が叶ったのは日本人のおかげです《ドーモ アリガト》」と日本語で乾杯したのである。
 このレコードは日本国内ブラジル音楽マニアの間だけで評判になり、売れ行きは大したことなかったが、板橋氏は夢が実現したので満足だった。ところがブラジル内プレス盤を発売したいというオファーがあったのである。
 グァナバラ・レコードは社長と副社長も元石油関係企業家で、音楽愛好家だった二人は定年退職後に趣味としてレコード事業を始めたのである。両人はジョニー・アルフのファンだったから日本のボサノヴォロジーア盤に目が止まったわけだ。
 話はとんとん拍子に運んでブラジル発売のカクテルパーティとなり、板橋氏から私に「サンパウロまで飛んで行けないから代理人として出席して下さい」と依頼があった。
 カクテルパーティはSESC大ホールで開催されたが、グァナバラ・レコードの広報担当者が日系社会へ宣伝しなかったため、私は大勢の中で目立つ存在となってしまった。マリオ社長が挨拶で「このレコードはジョニー・アルフの夢が日本人の手によって実現できた賜物です」と言った瞬間に会場のライトマンが私を板橋プロデューサーと思ったらしく強いスポットを当てたのである。
 私は不意打ちを食らってどうしてよいか困惑してしまった。カクテル席上でも私を板橋氏と思った人が大勢で、あとからあとから握手を求める人にいちいち「私は代理です」と説明しなければならなかった。
 しかしほとんどの人、特に白髪の高齢者からは、挨拶の決まり文句ではなくて「ブラジル人としてお礼を言いたい」という感謝の言葉だったのには感激した。
 つまりこの世代の人たちは最近の音楽業界があまりにもマーケット面だけのビジネスとなった社会現象に不満を抱いているのだ。

その才能の豊かさに比べて、あまりに報われない天才の最期

 その後、ジョニーの健康がすぐれなくて一人暮らしが困難となり、老人ホームに入居してしまった時、私に意外な訪問客が現れたのである。それはニューヨークで活躍しているジャズサンバの森ミカ・ピアニストだった。
 「ジョニーが入院したと聞いたのでお見舞いに来ました」と言ったので早速一緒に花束を持って中流住宅地ラッパ区の老人ホームへ行った。小ぎれいな一軒家だがジョニーの部屋は昔の「はなれの女中部屋」でシングルベッドだけで足の踏み場もない狭さだった。
 ジョニーは北米から日本娘のお見舞いに非常に感激して「ここに移ってから来てくれたのは君たち日本人が最初だよ」と私たちの手を固く握った。彼女は自分が演奏したジャズサンバのCDを「批評してください」と手渡したので、後に私が彼の感想を聞いたら「バランソ・タ・ムイト・ボン」と答えた。
 この表現は「お上手です」なんていうお世辞ではない。「ブラジル的スイング感が良い」と言う意味なのである。ボサノーヴァの元祖ピアニストからこんなに褒めてもらった外国人ピアニストは大和なでしこのミカさんだけであろう。
 ジョニーの性格から見て彼が他人の演奏を批評するなんてめったに無いのだから。メールでミカさんにこの旨を伝えたが、こんな最高の賛辞を元祖から受けた外国人ピアニストは日本人のあなただけであると言う感激が彼女に分かってもらえたかどうか。
 その後、健康状態が悪化してサントアンドレ市州立病院に入院したジョニーは、2010年3月4日前立腺ガンで永眠した。マスコミでは小さく報道されただけで、今だに彼の作品オマージュ・コンサートも開催されないことを、天国の大島師匠が聞いたら「ブラジルは大金持ちなんだよ」と禅問答みたいに繰り返すだろう。
 一方、弟子の板橋氏は音楽から離れられず、現在国分寺市内に小さなジャズサンバ喫茶店「カフェ・ジョーデル」を経営して相変わらず自分が楽しんでいる。
 トム・ジョビンは、ジョニー・アルフをジェニーアルフと呼んでいた。「ジェニアル」というのは「天才的」という単語だから、それにFを付けたわけである。カリオカ的ジョーク・スピリットあふれたジョビンの傑作であろう。
 ジョニーを敬愛していたトムも過去の人となった。ブラジルに「ジェニアル」な作曲家が出なくなってから久しい。

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