連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第65話

 四十八日間の旅は終わった。ブラジルにいた人たちに言わせれば、短い期間だったと言うけれど、私達にとっては余りにも色々な事があり過ぎて、長い期間に思えた。二十五年ぶりに見た、母国日本の変わり様に大きなショックを受けた。ある程度の変化は予想していたが、その予想よりはるかに大きな変わり様であった。旅の目的が近親友人訪問、祖先の供要、墓碑建立、天理のおじば帰参と、その目的は達成できたけれど、やはり心の内にはふるさとを懐かしむ人との出会い、その感激を期待したものであった。
 二十五年ぶりの懐かしいふるさと訪問の旅からブラジルに帰ってきて、又、元の生活リズムに戻った。あの感動の日々を過ごさせて頂いた日本の皆さんへの感謝の気持ちを礼状にして、早く送り届けるまでは旅は終わっていない気がして、それに一週間を費やした。そして又、訪日に際して、銭別を下さったブラジル側の人達や、又、高知で谷脇さんの刃釜を買って来たので、それを渡したり、そんな挨拶回りもすぐに済ませた。

    帰国後の一九八〇年の出来事・悟の花卉研修訪日など

 訪日留守中の仕事は栽培菊に特別な病気も入らず、事故もなく、販売も弟、巳知治が毎週、日比野さんまで送り届けてくれて、まずまず無事すぎて安心した。留守中は金をあまり使うこともなく、銀行貯金の帳尻はかえって増えていた。
 五月に入ると、長男の悟が宮崎県受入れ技術研修生の第一回生として、他三名と共に七月訪日となったので、その準備など、県とのやりとりがあり、結構忙しかった。
 一九八〇年のその他の出来事を少し記してみると、日本の国士舘大学から、日本武道普及のために、私達の住む、サンロッケに土地を求め、そこに国士舘大学の分校を造成する話しが持ち上がり、その関係者が訪伯する機会が増えてきた。実際に武道館が完成したのは一九八二年の六月であるが、それ以前から、バルゼン・グランデ日語校で、岩本先生指導の剣道部があって、岩本先生が退職される頃から国士舘大学より、剣道の右田先生が始まりで指導に当たって下さっていた。
 七月二日には、ローマ法王の、ジョン・パウロ二世の来伯があった。
 そして、七月十四日、悟(十八才)が宮崎県佐土原の県農業試験場に、切り花の研修で訪日した。悟が訪日して十二日目の七月二十六日に宮崎県農政水産部より、中山さんと伊沢さんがブラジルにやって来た。目的は、宮崎の農業青年をブラジルで三ヶ月間研修させる計画が生まれて、その下調べにやって来たのだ。私の家に一泊して、サン・ミゲールの田代君(私の同船者で中山さんの同窓の友人)の家などへ案内した。

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