白馬でなく、ラバに乗って独立宣言?
ブラジル独立宣言には幾つかの〝神話〟がある。一国の威厳と尊厳を高めるためには、歴史の中に神話的な逸話を紛れ込ませることは、どの国においても常套手段だ。ただし、ブラジルの場合、歴史が浅いために検証されやすい。だからすぐに化けの皮がはがれてしまう。だが、それも含めて「ブラジルらしい」と愛着が沸かないだろうか。
たとえば、有名な〝神話〟の一つは、1822年9月7日にイピランガの丘で、白馬に颯爽と乗った制服姿のペドロ摂政王子(のちのドン・ペドロ1世)が、これまた軍服姿の大勢の側近に囲まれる中、雄々しく剣を振り上げて「独立か、死か」と叫んだ姿だ。彼は1798年ポルトガル・リスボン生まれなので、まだわずか23歳だ。
1888年に画家ペドロ・アメリコがその情景を描いた有名な絵画のイメージが定着し、そのように一般的には思われている。
だが、Veja誌独立200周年特別号(https://veja.abril.com.br/wp-content/uploads/2022/09/VEJA-Especial-1822-Ed-2805.pdf、無料DL可)によれば、歴史家のリリア・モリッツ・シュワルツは『 The Kidnapping of Independence — A History of Building the Myth of the Myth of September』の中で、実際の様子をこう説明している。
《実際には、摂政王子は普通の服装をしていた。彼はラバ(雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜)に乗っていて、疲れ果てた側近に囲まれていた》
2017年3月にリベルダーデ歩こう友の会がサントス旧街道下りをする際に取材したが、ガイドをしたジョズワルド・マルケスさんから興味深い話を聴いていた。この道は、帝政時代のブラジルにおいて首都リオからサントスについた人がサンパウロ行くために、海岸山脈をウネウネと蛇行しながら上るこのサントス旧街道を通る必要があった。
マルケスさんは「この旧街道は急勾配でほぼ山登り状態だから、とてもではないが人を乗せた馬は上れないはずだ。ドン・ペドロもラバに乗ってここを上がったはずだ。だから、アメリコの絵は間違っている」と指摘していた。
その指摘は今回の200周年の様々な記事ですでに定説になっていることが分かった。
また、17年9月8日付ヴェージャ誌記事(https://veja.abril.com.br/cultura/independencia-do-brasil-teve-ate-dor-de-barriga-de-dom-pedro/)によれば、なぜイピランガ川のほとりで独立宣言をしたかと言えば、その日は朝から体調を崩して下痢気味だったからだという。
前日に食べたものが当たったか、道中で水分補給した際に汚染された水を飲んでしまったのではと推測される。サントスから上がる道中、たびたびペドロはお腹を抱えてしゃがみ込み、叢や小川に駆けこんで用を足したと言われる。
この様子は17年9月に放送されたグローボTV局のノベーラ『ノーヴォ・ムンド』のブラジル独立(Independência do Brasil)の回に、カイオ・カストロが演じるドン・ペドロが忠実にその状景を描いている。
テレビドラマで描かれるぐらいだから、別に隠されているわけではない。だが、歴史的事実を知らない人には意外かもしれない。
首都リオではなく、なぜサンパウロ市で独立宣言したのか
1822年当時、サンパウロの町の人口わずか1万人未満の小さな農村だった。現在のメトロ駅でいえばサンベントからセーまでの狭い区間が町になっていた。
当時、首都リオにはポルトガルから移り住んだ貴族や官僚や職人らを含めて約8万人がいたから、大きな違いだ。さかのぼれば、1807年、ナポレオン軍がポルトガルに侵略し、ポルトガル王室は貴族や官僚を連れて船に分乗して、英国海軍に護衛されながら最大の植民地だったブラジルへ避難した。
翌1808年にリオがポルトガル王国の臨時首都となり、植民地から帝国に昇格していた。
ナポレオン軍が撤退した後、ポルトガルは自らの国家覇権を取り戻すべく、王族を帰還させ、ブラジルを植民地に戻そうとしていた。その流れでペドロの父ジョアン6世は1821年にポルトガルに帰還し、残ったペドロを摂政に指名した。
当然、ポルトガルは王族のいる本国として威厳を取り戻し、ブラジルを元の植民地に格下げしようと画策し、それを防ぎたいブラジル現地とのせめぎ合いが独立宣言の背景にあった。
ブラジル側ではボニファシオら独立派政治家に加え、正妻レオポルディナが決定的な役割を果たしていた。
1822年9月、なぜ辺鄙なサンパウロに、摂政王子がわざわざやってきていたかと言えば、地方との関係を深める視察に加え、サンパウロ市セントロに愛人が住んでいたことも理由の一つだった。
彼女の名はドミチラ・デ・カストロ・カント・エ・メロ(1797年―1867年)。1826年に「侯爵」の称号を与えられ、「マルケザ・デ・サントス」と名乗るようになった。だから彼女が住んでいた家は、今でも「Solar da Marquesa de Santos(マルケザ・デ・サントス邸宅)」として公開され、観光地になっている。
1554年1月25日、イエズス会のマヌエル・ダ・ノブレガ牧師らがサンパウロで最初にカトリックのミサを行った場所に建てられた教会施設パチオ・デ・コレジオの、すぐ横にあるピンク色の建物だ。
恋多き男として有名で、愛人はドミチラだけではなかったが、最も重要な愛人だった。だから「侯爵」として重用された。ペドロはレオポルディナと結婚する前から、フランス人のダンサーと子どもを作っていた。またフランス人博物学者の妻とも関係を持っていた。その他に既婚者のフランス人洋裁師とも子どもをもうけていた。さらにドミチラの妹マリアとも子どもがいた。
そのような恋多き男だったので、正妻レオポルディナ妃の気苦労は絶えなかった。
つまり、雄壮な独立宣言の背景には、愛人に会うためにわざわざサンパウロまで来て、腹痛を我慢して、ロバに乗って海岸山脈を上ってきたという事情もあった。
奔放に育てられたペドロ摂政王子
ペドロ摂政王子はリスボン生まれだが、9歳からブラジルで育った。いわば「子ども移民」として、欧州王族の伝統から離れた「ブラジル人の原型」とも言える自由奔放な愛すべきキャラクターを持っていた。
『ブラジルの歴史を知るための50章』(伊藤秋仁・岸和田仁編著、明石書店、22年)によれば、《馬術をマスターし、麦藁帽に綿の服を身に着け、海に行けば裸になって海水浴をした。森を一人でさまよい、村の子どもたちと取っ組み合いのけんかをした。長じても奔放な性格は変わらなかった。学問より芸術を好み、彫刻や音楽の技術にたけていた。とくに楽器の演奏は一流で管楽器も弦楽器も鍵盤楽器も自由に操った。当時は下品とされていた場所や音楽も好んだ。ギターを弾き、アフリカ人奴隷の音楽に由来するルンドゥと呼ばれるコミカルな歌と踊りも身に付けた》(119頁)とある。
1822年9月7日は、もちろん、愛人に会うためだけにサンパウロに来ていた訳ではない。ここはブラジル史上最も著名な政治家で独立論者だったジョゼ・ボニファシオの拠点だった。
ポルトガル本国からペドロ摂政王子に帰還命令が出た際、ボニファシオを先頭にサンパウロ県議会議員全員が著名して留まることを願い出ていた。ペドロ摂政王子は摂政としてブラジルを治める立場であり、帰還することでブラジルが単なる植民地に戻ってしまう流れにあったからだ。
ブラジル残留宣言をしたペドロ摂政王子に対し、リオのポルトガル軍が蜂起するのを追放したり、本国からの鎮圧部隊の上陸を拒否したり、どんどん独立に向けて後戻りできない状態になってきていた。
ペドロ摂政王子は1822年8月にミナス州、続いてサンパウロ州を訪問していた。9月5日にサントスの要塞を視察にいき、7日早朝にサントスを発ち、海岸山脈を上って午後4時半頃、サンパウロ市のイピランガ川のほとりで、ポルトガルの宮廷からの知らせを持ち、リオから陸路で来た使者に出会った。
そこには「王子の摂政からの格下げ」「リスボンから大臣指名する形での新内閣編成」「摂政王子残留を勧めたサンパウロ県関係者への処罰」などの命令が書かれていた。同時に、そのリオからの使者はレオポルディナ王子妃やボニファシオからの独立宣言を薦める上申書も携えれており、両方を読んだ摂政王子は、「独立を、然らずんば死を!」と宣言したと言われる。
このように宣言をしたのはペドロ摂政王子だが、実は独立宣言書に署名をしたのは彼ではなかった。では、誰が署名をしたのか。(続く、深)