そんな時代であったが、花作りは恵まれていて、少しづつながらも事業拡大が出来た。私達の農場も菊の切り花主体の経営になって、遠くまで通って借地することもなくなり、自分の所有地三十二ヘクタールのうち、半分位を開いて、作付けをしていたので、そこに徐々に菊のハウスを増やして行く予定をたてていた。すぐ使わない所四ヘクタール位にはユーカリを植えた。このユーカリを植えるとき、ユーカリを薪(レンニャ)として売る場合、五年から七年おきには切れるので「娘達の結婚資金にでもしようね」と話し合って植えたものであった。
自分で花売りを始める
さて、家の仕事も菊の電照栽培が大分軌道に乗って来たので、これに全力投球する価値ありとみて、ある程度は銀行融資を受けて、事業拡張に踏み切った。それも急な規模拡大は慎むべしとの、その昔の失敗の教訓を肝に銘じて、道路上東側を下から五段階に分けてブルドーザを雇って来て地均しをした。菊栽培を始めた時のハウスは金をかけずに、ユーカリの丸木と竹で建てたけど、今回はペローバやカナフィストラ等の、腐りにくい精材木を買って建てることにした。材木購入代金は払える見通しがついたので、銀行から少しの融資を受けた。
ハウスの構造は当時の近くの仲間達と同じように、幅三㍍長さ六十㍍のものを連棟形式で建てた。でも、この形式は電照には問題はないが、夏の日照の長い時期に黒いビニールで覆うシェードには頭を痛めた。
電照菊経営も販売はまだ日比野さんに売ってもらっていた。週に二回、日比野さんの集荷所まで主に夕食後にコンビ車に積んで持って行った。売り上げの二○%を差し引かれる。それでも、少しづつでも事業拡張が出来る位の余裕ができた。
周囲の人達は「黒木さん、何故自分で売らないのか?」としきりに奨めるので、その後、何回かセアーザを見学に行き、自分で売ることの利点と、その方法を勉強した。
一九八二年末の十二月に販売する場所(ボックスまたはペードラと言う)をゆずっても良いと言う人があり、その場所を購入した。ボックス№390である。
そして、十二月二十一日、生まれて始めて、物を売る仕事、セアザの一角で花売りを始めた。最初はずいぶんと戸惑ったけれど、段々と慣れて、固定客も大分増え、販売に面白味も出てきた。委託販売の時よりもかなり手取りが多くなった。
私達の住むサン・ロッケとは
私達の住んでいるサンロッケの土地について少し書いてみよう。